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S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
現在ははてなで活動しています。

障害をもつ子を間にする「親の気持ち」と「教師の気持ち」

2005年06月03日 | 障害児の教育
まず、リンク。
特殊学級担任の“ここだけの話”から
1.[異論反論]杉森津久美
2.[異論反論]親の気持ち

この二つの記事に関して、障害児の教育現場にいらっしゃる教員の方の立場の方と、障害をもつ子の保護者の立場と、その二つの立場で感想が異なるのではないかと思います。
その上で大事なこととわたしが思うことは、「自分の立場だけでとらわれない視点を持つこと、持つ努力をしようとすること」です。

「1.」の記事は、書き手がご自身の立場で出された「感情」が、コメントに入った保護者からの「感情」を喚起してしまっています。
そのことが、また、この書き手の持つ悲しみとなり、「2.」につながっている部分があると、わたしは思います。

障害をもつ子を取り上げるドキュメンタリーで、ああした編集意図というものは、はっきり言って、とてもよくあることです。
言い方をかえれば、そうした編集意図が、当たり前のようになっているかもしれません。
新聞の投稿欄なども、就学を迎える季節は、そうした傾向の投稿が必ず目につきます。
こうした編集意図は、常に「片側からの視点」です。
分離する教育現場の側に立った取材など、出てきません。
そして、こうした編集意図は、そこで喚起される「感覚」に対して、何の責任も持ちはしません。

全ては、その上で成り立っていること。
この上で、このことを論じる必要があるのではないかと、わたしは思います。

障害をもつ子が家族として「やってくる」まで、保護者はそうした「ある意味情報操作されて作り上げられている一般的な印象」の中で生きています。
教員の立場にある方も、他の面で、そうした「ある意味情報操作されて作り上げられている一般的な印象」の中で生きているところもあるのではないかと思います。
自己の立場だけでは見えないことというものがある。
その前提をもっていないと、どうしても、お互いがお互いの感情を喚起しあう悲しいやり取りが生まれてしまうのではないかと、わたしは思います。

そういう意味では、障害児教育の現場にいらっしゃる方は、積極的に、その教育の姿を伝えて欲しいとわたしは思います。
そのことが、その積み上げが、ひとつひとつ、つながっていくことと、わたしは信じていたいと思います。

保護者側に望むことは、障害児の教育 でふれたように、
「教育環境っていうのは、感情論ではなく、科学的に語られなきゃならんのではないか」
という視点を持っていただきたいということです。
そして、どの保護者がどんな選択をするか、そのことに関しては、この記事のコメント欄で出した、以下の通りです。
就学先の選択ということに「正解」というものは無いのだと思います。
子どもの障害の状態、子どもの個性、保護者の価値観、保護者の個性、その地域の個性、
それらが全部総合されて答えというものが出るんだろうな、と。
そして、その中で、足りないと思われるものをどこでどんな風に補っていくか、そういう思考で支えていくことなのかもしれないな、と思います。
どの選択をしたとしても、満足が得られるケースもあれば、問題が起きるケースもあります。
担当の教員だけでなく、その学校の管理職の個性が大きく影響していってしまう場合もあります。
それは、障害をもたない子どもを就学させた時にも起きてくる可能性です。
普通に子どもが育って、普通に学区の学校に通っても、その上で問題というものは出現する可能性があるのが、残念ながら「学校」という場でもあるのです。

ただ、障害をもつ子の教育は、そうした影響を障害をもたない子よりも大きく受けてしまうということもあります。
その上で、「統合」を選んだときは、「本来この子が来るべきところではないのだから」という「逃げ道」を教員側が持つ場合があります。
これは教育の不充分ということに加え、学級での問題が起きたときの処理に関しても関わってきます。
また、その学級の他の保護者の個性ということも影響が出る場合があります。
「統合」ということを歓迎する保護者もいれば、「あの子がいることで授業が遅れる」という意志を持つ保護者もいるということです。
表面上、「平和な豊かなしあわせな統合」に見えたケースで、その学級に属していた人が何十年もたってから「実は」という話を聞いたこともあります。
その「平和な豊かなしあわせな統合」は、実は、その学級のひとりの「障害児のきょうだい児」のはたらきによって成立していたと。
教員や、自分の両親、そしてその学級にいた障害をもつ子どもの親、こうした「大人達」に役割を暗に要求され、それに応え続けた1人の子どもの「精神的な犠牲」など、誰も知る由は無かったと。
その本人も、その「押しつけられた役割」がイヤなのではなく、「当然のように微笑みながら押しつけてくる大人達の態度」に抗うということを自覚することも訴えることもできなかったと。
こうした「しわよせ」がどこかに存在していく可能性を持つほど、「統合」という場はまだまだ行き当たりばったりで、運が影響する、制度的な支援が無い場だということの認識が必要だとも言えます。

そして、「分離」を選ぶことに対しての抵抗は、「無知から始まる偏見」だけではないこと。
障害児の教育という現場が長い教員の方の中には、ご本人の意識の無い、または薄いところで「一般的な感覚から離れてしまっている人」が存在すること。
そうした方に対して、保護者がなかなかスムーズなコミュニケートが取れなくなるケースが往々にしてあること。
熱意のもとに、人権感覚の欠落を気づかない、または人権感覚にマヒしていらっしゃると思われる教員の存在という、そうしたケースで起きる問題もあること。
そしてそうした「一件」が、保護者の間で大きく影響を及ぼしていくことも無視できません。
具体的に言えば、「一件の訴訟」が、長きに渡り、保護者の不安を増大させ続けることもあります。

そうしたことをふまえた上で、感情論ではなく、情報提供の積み上げを、お互いの立場でいろいろな場で、少しずつ積み上げていくこと。
これが全体の向上につながると、わたしは信じていたいというスタンスです。
教員と保護者が出会うときに、まず信頼から始まるということが最良であること。
そのことが不安定な状態であるときに、当の本人である子どもに影響が及ぶこともありますので。

なお、リンクした「1.」の記事に関して、そう感じられたことの元になる「具体的な内容」を、別の形で情報として提供していただけることをわたしは希望します。
いや、実際「統合」を小学校時代に選択した方が、中学進学後に「分離」を選んだ時に発生することとして推測がつくこと、わたしでも情報提供として提示できる内容というものもあるにはあるのですが、これは是非、現場の教育に携わる方からの情報として、わたしは希望します。
こういう具体的なこと、その提示の相互の提供で解決できる「感情の問題」というものは、本当にそこここに転がっているものだと思いますので。

*トラックバック
特殊学級担任の“ここだけの話”[異論反論]親の気持ち

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2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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こんにちは (ゆき)
2005-06-15 17:49:08
初めまして。

ミルキーウェイのゆきです。

以前にコメントを書いていただいたまま、いろいろなことを考えていました。障害をもつ子の親のことなど、わからないと言われると、その通りなのですが

ずっと考えていたことを言葉にしてみました。言葉足らずだったり、理解できていない部分もあるかと思いますが、何度かこちらを訪問させていただき、応援したい気持ちもあり、思い切ってコメント、トラックバックさせていただきました。これからも、よろしくお願いします。

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はいはい (S嬢)
2005-06-15 23:16:56
こんにちは。

ご訪問、ありがとう。

そして、長文のコメントレスを本当にどうもありがとう。

「思い切って」という気持ちを持たせてしまったのだなあと、やや反省です。

ごめんなさいね。



さて、正直なトコの吐露、トラックバックでいきました。

よろしくです。
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