落合順平 作品集

現代小説の部屋。

農協おくりびと (31)紅い眼鏡

2015-10-23 11:25:14 | 現代小説
農協おくりびと (31)紅い眼鏡



 11:00。開式の時刻がやってくる。
ちひろの緊張が一気に、レッドゾーンへ突入していく。
心臓の鼓動が、今世紀最大の数に到達する。
全身をかけめぐる血液が、沸騰寸前までたぎっていく。


(いよいよ、わたしの、初舞台がこれから幕を開ける・・・)



 喪主席に座る奥さんが、『大丈夫でしょうね、先ほどお願いした例の件は?』
と鋭い視線を、司会席のちひろへ向けてくる。
(最長老が、ワシに任せろと胸を叩いてくれましたが、その後の進展は分かりません。
何とかなると思いますが、確信は、残念ながら有りません・・・)
そう応えようとした瞬間。奥さんが、会場の気配にきづいて横を向く。



 導師(僧侶)が、入り口に現れたからだ。
コホンと咳払いした導師が、しずしずと歩いて祭壇の前に座る。
黙礼を送っていた会葬者たちも、物音をたてないようにして椅子へ腰を下ろす。



 11:03。ちひろが 開式の辞に目を落とす。
激しく隆起する胸元を軽く抑え、ふっと短い息を吐いた後、
手元に置いたメモに、目を走らせる。
だが、文字が良く見えない。
文面がかすれたまま、書いてあるはずの文字が目の中に飛び込んでこない。
(えぇ・・・文字がまったく見えません。どういうことなのかしら、これっていったい・・・)



 コンタクトレンズを入れ忘れていることに、ちひろがようやく気が付いた。
普段は朝起きた時。習慣として装着するようこころがけている。
それが今朝に限り、そのことをすっかり忘れていた。



 (道理で車の運転の時。前方の景色が、ぼんやりしていたはずだ・・・
 コンタクトを忘れていたとは、気がつきませんでした。
 平常心のつもりでいたけれど、朝から舞い上がっていたあたしが居たようです。
 あれ、そういえば、母が作ってくれた赤飯のお弁当はどうしたのかしら?
 バックの中に、入れた覚えもありませんねぇ・・・)


 
 あわてて、コンタクトレンズを装着している余裕はない。
反射的にポケットへ触れた瞬間、万一にそなえて持っていた眼鏡に気が付いた。



 (地獄に仏です・・・間一髪で命拾いをしたようですねぇ・・・ふぅぅ~)



 眼鏡ケースからちひろが、真っ赤な眼鏡を取り出す。
顔を下に向け、取り出した真っ赤なフレームを、慣れた手つきで目にかける。
固唾をのんで見守っていた最前列から、『ほぉぉ~』と溜息が漏れる。



 小さな驚嘆の声が、後ろに向かってさざ波のように広がっていく。
紅い眼鏡が、あまりにもちひろの顔に似合っているからだ。
普段メガネを使用していない女性が、ある日とつぜん眼鏡をかけると、
美女度が急上昇することがある。
ちひろの場合が、まさにそれに当てはまる。


 ただしちひろの場合。美人度が上がるというよりも、知性を感じさせる顏になる。
最前列から湧き上がった「ほぉ・・・」という声は、どうやら知性を醸し出した
ちひろの急変ぶりに有るようだ。



 開式の言葉を無事に読み終えたちひろが、ほっとため息を吐く。
ドキドキとしている胸を、そっと小さくなでおろす。
11:05。予定通り、頑固住職の読経がはじまる。
僧侶が退席するまで、読経は続く。
通常は30分~40分程だが、お経の長さは宗派や僧侶よっておおきく異なる。


 赤い眼鏡をかけたちひろが、長老の姿を必死で探す。
最後方の壁際に立っている最長老を見つけた時、ちひろの手元にあたらしいメモが届く。


 『読経開始、10分後に、焼香をはじめる許可をいただきました。
 喪主→遺族→親族→指名焼香→一般参列者の順番で、案内をお願いします』



 と書いてある。
だがちひろの一番の心配事である千の風については、ひとことも触れていない。
(流すことが出来るんだろうか、千の風は無事に・・・)



 10分後の11:15。予定通り、喪主の奥さんが焼香に立つ。
だが待てど暮らせど、『千の風を流せ』という指示は、ちひろの手元に届かない。
じりじりとしながら500人を超える焼香の時間が、順調に過ぎていく・・・


 
(32)へつづく

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