落合順平 作品集

現代小説の部屋。

上州の「寅」(1)エピソード1 もつ煮

2020-07-08 15:25:18 | 現代小説
上州の「寅」(1)


 石橋をたたいても絶対に渡らない。いつも引き返してしまう。
それが「寅」という男。


 生まれは群馬県。むかし風にいうなら「上州」。
姓は諏訪。名は寅太郎。教師一家、諏訪家の長男として生まれた。
父親は国民的名画「フーテンの寅さん」の大ファン。


 「いやです。寅太郎なんて野暮な名前。
 だいいちテキ屋でしょ。寅さんは。
 こどもが将来、そんな人間に育ったらどうするの。
 あたしは反対です。
 翔太か、翔(かける)にして!」


 「遅い。手遅れだ。もう役所へ出生届を出してきた」


 「もうっ、あんたって人は・・・」


 というわけで上州に「寅」が誕生した。
フーテンの寅さんこと車寅次郎の生業は、ご存じの通りテキ屋。
ばくちうちではないが旅ガラスの渡世人。


 「遅ればせの仁義、失礼さんでござんす。
 わたくし、生まれも育ちも東京葛飾柴又です。
 渡世上故あって、親、一家持ちません。
 カケダシの身もちまして姓名の儀、一々高声に発します仁義失礼さんです。
 帝釈天で産湯を使い、姓は車、名は寅次郎。
 人呼んでフーテンの寅と発します」
 
 と仁義を切る。
テキヤの寅さんは暴力団の組員なのか?答えはノー。
定宿を持たず旅をつづけているが、弱いものいじめはしない。


 「寅」の幼年期のエピソードをひとつ。
豚の内臓を煮込んだもつ煮は、上州のソウルフード。
もつ煮専門の店もある。町中の大衆食堂でももつ煮を出している。


 「どうしたの寅ちゃん?。
 いつまでもお口をくちゅくちゅして」


 「だってお母さん。わからないんだ。どうしたらいいのか・・・」


 「呑み込めばいいの。適当に」


 「適当って?」


 「適当は適当。このへんでいいと思ったら、ぐっと呑み込むの」


 もつ煮を食べている時の寅と母親の会話である。


 「いくら噛んでも終わりがないんだもの。
 くちゅくちゅ、くちゅくちゅ・・・
 こいつったら口の中で、いつまでもいつまでも抵抗するんだ」


 「いくら噛んでも限度はありません。もつ煮はそういう食べ物です」


 「じゃ・・・いったいいつ呑み込めばいいの?」


 「満足したら呑みこむの。適当なタイミングで呑み込みなさい!」


 「満足したんだ。だけど呑み込むタイミングがわからない!」


 「困った子ねぇ。満足したのなら出しなさい。ほら」


 母がティッシュを差し出す。
寅がさんざん噛んだもつを、ぺっとティッシュの中へ吐き出す。
かくしてトラはもつ煮を食べるたび、噛み終わったもつをティッシュの中へ
吐き出すことになる。


 (2)へつづく