小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

636 蘇我氏の登場 その2

2018年10月14日 01時28分09秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生636 -蘇我氏の登場 その2-


 そして、その死にまつわる『日本書紀』の不思議な記述です。
 継体天皇の没年は、『古事記』が、

 「天皇の御歳は四十三歳で、丁未の年の四月九日に崩御された」

と記しています。「丁未の年」とは西暦では527年です。

 一方、『日本書紀』は、

 「(継体天皇)二十五年の春二月に天皇は重い病にかかられた。丁未に天皇、磐余玉穂宮にて
崩御された。御年八十二歳」

とし、また継体天皇二十五年は辛亥の年と記しています。西暦にすると531年で、『古事記』と
4年の差が生じます。
唯一一致するのが「丁未」なのですが、これも『古事記』が「丁未の年」、『日本書紀』が
「丁未の日」としているのでその意味は大きく異なります。

 ところで、『日本書紀』が記す「継体天皇崩御は、継体天皇二十五年で辛亥の年」について
なのですが、これについて『日本書紀』は次のように記しているのです。

 「ある本には、天皇が二十八年に崩御されたとある。しかしながら本書が二十五年に崩御と記す
のは、本書を編纂するにあたって『百済本紀』の記事を参考にしたからである。それに書かれて
いることによれば辛亥の年に日本の天皇および皇太子と皇子がともに薨去したという。辛亥の年とは
二十五年にあたる」

 この文を読むと『日本書紀』が編纂された当時、継体天皇が在位28年の年に崩御したとする
記録が、(おそらく日本に)存在した、ということになります。
にもかかわらず、朝鮮半島の「百済本紀」に、「辛亥の年に日本の天皇と皇太子と皇子がともに
薨去した」という記事があるのでこちらを採択した、と記しているのです。

 これに関連して、奇妙なことがもうひとつ、聖徳太子の伝記としては最古のものとされる『上宮
聖徳法王帝説』の中にあります。

 ただ、これを紹介する前に継体朝以降の話をします。
 第26代天皇である継体天皇の後には、継体天皇の3人の御子が続いて即位しています。
 それは次のとおりです。

 27代安閑天皇
 28代宣化天皇
 29代欽明天皇

 なお、安閑・宣化天皇の生母は尾張連草香の娘、目子媛(メノコヒメ)で、欽明天皇の生母は
仁賢天皇の皇女、手白髪命です。つまり、安閑・宣化天皇と欽明天皇は異母兄弟というわけです。

 それでは『上宮聖徳法王帝説』ですが。
 この書の中には、第29代欽明天皇が在位四十一年の辛卯の年に崩御した、と書かれているのです。
 この辛卯の年とは西暦では571年にあたります。この年が在位41年目ということは、そこから
逆算すれば欽明天皇即位の年は、西暦531年。つまり継体天皇が崩御した辛亥の年なのです。
 すると、安閑天皇と宣化天皇の在位期間がなくなってしまうわけのです。

 ちなみに『日本書紀』では、欽明天皇崩御の年は欽明天皇三十二年のことになっています。仮にこの
欽明天皇三十二年が辛卯の年(西暦571年)ならば、即位の年は西暦539年ということになります
(即位の翌年が欽明天皇元年になります)。
 『日本書紀』では、安閑天皇の在位は3年、宣化天皇の在位は5年となっています。
 これを西暦に置き換えると、

 531年。継体天皇崩御。安閑天皇即位。
 533年。安閑天皇崩御。宣化天皇即位。
 537年。宣化天皇崩御。欽明天皇即位。
 569年。欽明天皇崩御。

ということになり、欽明天皇崩御の年が辛卯の年(西暦571年)より2年ずれてしまうことになり
ます。
 一方、『古事記』は、継体天皇崩御が丁未の年(西暦527年)で安閑天皇崩御が乙卯の年(西暦535年)と
しているのです。
 これだと安閑天皇の在位は9年ということになってしまうわけですが、しかし、これを西暦に置き換え
、さらに欽明天皇の治世を『日本書紀』が記すとおり32年としたならば次のようになります。

 527年。継体天皇崩御。安閑天皇即位。
 535年。安閑天皇崩御。宣化天皇即位。
 539年。宣化天皇崩御。欽明天皇即位。
 571年。欽明天皇崩御。(欽明天皇三十二年)

 このように欽明天皇崩御を辛卯の年(西暦571年)とする『上宮聖徳法王帝説』と合致します。
 『日本書紀』の編纂スタッフもこのことに当然気づいていたと思うのですが、なぜか「百済本紀」の
継体天皇崩御の年は辛亥の年(西暦531年)とする記事を採用するのです。
 「なぜか」と疑問形にしたのは「百済本紀」の記事があまりにも不穏だからです。「日本の天皇と
皇太子と皇子がともに薨去した」という記事はクーデターによる暗殺を疑わせるものです。
 それは『日本書紀』の編纂スタッフが「あえて疑わせるようにした」からなのかもしれません。