小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

635 蘇我氏の登場 その1

2018年10月08日 00時44分34秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生635 -蘇我氏の登場 その1-


 前章の最後にふれたように、神武天皇からはじまる皇統は25代武烈天皇で途切れてしまった
のです。それまでにも子をなすことができなかった天皇はいましたがその場合には近親者が皇位を
継いでいました。ところが、武烈天皇が崩御した時には男性の近親者が誰もいないという状況に
なっていたのです。
 そこで朝廷は応神天皇五世の孫だという男大迹王(オヲド王)を新天皇に選んだのでした。
26代継体天皇です。

 継体天皇の即位とその崩御については以前に採り上げたのですが、時間がたってしまいましたし
少しおさらいをしてみたいと思います。

 王統が途絶えてしまったために遠縁のオヲド王が新天皇に選ばれた、と今しがた言いましたが、
実のところ『日本書紀』には、最初からオヲド王が新天皇として選ばれたわけではなく、はじめは
丹波国桑田郡にいる、第14代仲哀天皇五世の孫、倭彦王(ヤマトヒコ王)を新天皇に迎えることに
なった、と書かれています。
 倭彦王を推したのは、大連であった大伴金村でした。朝廷も金村の意見に従って使者に軍勢を
つけて倭彦王のもとに派遣しました。
 ところが、この軍勢を遠目に見た倭彦王は自分を攻めに来たものと思い込んで逃亡してしまった
のです。
 結果、このような臆病者では天皇としての資質に欠ける、ということで新たに候補として浮上した
のがオヲド王だったのです。オヲド王を推したのもまた大伴金村でした。

 オヲド王については『古事記』、『日本書紀』がともに、応神天皇五世の孫である、と記して
います。

 ただし、その本拠については記紀で異なる記述をしています。
 まず『古事記』の方は、

 「品太天皇五世の孫、袁本杼命、近淡海国より上り坐さしめて・・・」

と、近江にいた、としているのですが、これに対して、『日本書紀』の方は、

 「天皇の父、彦主人王(ヒコウシ王)は振媛がたいそう美人であると聞いて、近江国高嶋郡の三尾の
別業より使者を遣わして、三国の坂中井に媛を迎えて妃とした。そうして継体天皇が生まれた」

と、オヲド王が近江の出身であるとする記述に続いて、オヲド王が幼少の頃の父王が亡くなったため
オヲド王の母は故郷である越前国坂井郡高向に帰り、その地でオヲド王を育てたと書かれているのです。
 つまりは、『古事記』は、オヲド王は近江にいた、とし、『日本書紀』の方は越前にいた、として
いるわけです。
 もっとも、このことに関してはオオド王の版図が越前から近江にまたがる広い版図を有していたものと
考える研究者も少なくないようです。


 こうした事情を経て朝廷の使者がオヲド王のもとに送られますが、使者を応対したオヲド王のこの時の
様子を『日本書紀』は次のように記しています。

 「男大迹王天皇、晏然に自若して、胡坐に踞坐す。陪臣をととのえ列ねて、すでに帝の坐すが如し。
しるしを持つ使等、これによりて敬憚りて心を傾け命を委せて忠誠を盡さむことを願う(オオド王は
泰然と座られ、すでに天皇の風格をまとわれておられた。使者たちは眼前にあって、敬いの気持ちと
命をかけての忠誠を誓う決心をした)」

 まさしく「帝王」たる資質を有した人物であった、と言うかのごとき記述なのですが、『古事記』の
方はオヲド王を新天皇に迎えるにあたって次のように記しているのです。

 「品太天皇五世の孫、袁本杼命、近淡海国より上り坐さしめて、手白髪命に合わせて、天の下を授け
奉りき。(応神天皇五世の孫、オオドノミコトを近江国から上京させ、仁賢天皇の皇女の手白髪命と結婚
させて天皇の位を授けた)」

 こちらの記述からは『日本書紀』のように三顧の礼で迎えたとするものと大きく異なった印象を受け
ます。
 『古事記』の記述は、大和政権が入り婿の形でオヲド王を迎えて天皇の位に就けた、というものなの
です。
 しかし、『日本書紀』からでも、やはり皆から望まれてオヲド王が新天皇として迎えられたわけでは
なさそうだ、と思われるのです。

 と、言うのもオヲド王が新天皇として即位したのは河内の樟葉宮(現在の大阪府枚方市楠葉に比定)で、
その後筒木宮(京都府京田辺市にあったと推定)、弟国宮(京都府長岡京市にあったと推定)と遷り、
最終的に大和の磐余の玉穂(奈良県桜井市)に都を遷してようやく大和入りを果たしたのは即位してから
実に20年後のことだったのです。

 なぜ要請を受けてからすぐに大和入りしなかったのか?あるいは大和入りができない理由があったのか?
 この辺りの解釈は研究者たちの間でも様々なのですが、「大和入りをしなかった(できたのだけども
あえて大和入りをしなかった)」と考える人たちは、慎重に事を動かそうとした継体天皇が。大和の手前に
留まって実情を調査しようとしたため、と考えます。
 また、あえて大和入りしないことで朝廷の諸豪族を焦らし、度重なる要請によりようやく大和入りをした、
という「三顧の礼」の形にもっていくための作戦とする説などがあります。
 しかし、大和入りに20年かけたというのはいくらなんでも長すぎます。
 「大和入りができなかった」とする研究者たちの考え方は、大和政権側に、オヲド王の即位に反対する
勢力が少なからず存在していたため、というものです。もし、当初オヲド王に樟葉にて大和の実情を探ろうと
していた、とする説を採用するにしても、結果、対抗勢力が侮れないものと判断したため大和入りを延期した、
と推測することもできます。つまりは結局のところ大和入りは難しいと判断されたということです。

 もうひとつ、大和入りが困難だった、と考えられる理由のひとつが継体天皇の年齢です。
 オヲド王が大和からの要請を受けて樟葉宮で継体天皇として即位したのが、継体天皇57歳のこと。つまり
大和入りを果たしたのは継体天皇が77歳のことだったのです。
 現代においても高齢と言うべき年齢になっていたわけで、まして当時で考えると年齢的には異常に遅い
大和入りだということがお分かりでしょう。

 さらには、継体天皇の死においても、やはり異常なものを感じざるを得ないのです。