小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

626 物部氏と出雲 その14

2018年04月16日 01時01分24秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生626 ―物部氏と出雲 その14―


 応神天皇と仁徳天皇の恋話には吉備がよく登場しますが、これは、吉備が、というよりは
瀬戸内の神話や伝承が中央に取り込まれたためであろうと思われます。
 これらの説話には海人などが登場することや『播磨国風土記』に記される景行天皇と印南の
別嬢の伝承も瀬戸内の島々を舞台としていることから、元は瀬戸内の海人たちの伝承であった
ものと考えられるのです。そして、吉備もまた瀬戸内海に面しているので、吉備が登場する
のも何ら不思議はないわけです。
 『古事記』にも、日向から大和に向かう神武天皇は瀬戸内海を船で進みますが、途中吉備の
高島宮に八年いた、と記されています。

 さて、ここで考察しておきたいのが吉備と物部氏の関係です。ここまで見てきたとおり、
物部氏は四国へと進出していったわけですが、吉備が属する山陽地方はどうだったのでしょうか。
 『古事記』、『日本書紀』からだけでは吉備の豪族たちと物部氏の関係、とりわけ直接的な
結びつきを読み取ることは難しいと言えます。
 むしろ、記紀からだけでは、吉備と物部氏は敵対関係にあったのではないだろうか、とさえ
思えるのです。なぜなら、物部氏が大和政権の中枢を進出した時期は雄略朝のことと考えられる
のですが、同じ雄略朝時代に吉備は大和政権に反旗を翻すかのような行動を取り没落していく
ことになるからです。

 では、反対に吉備と大和政権の関係が良好だったのはいつの頃だったのでしょうか。

 『日本書紀』によれば、吉備の有力氏族が誕生したのは応神天皇の時です。『応神紀』の、
応神天皇二十二年の項にそのことが記されています。その内容については少し前にも紹介した
ところなのですが、あらためて採り上げますと、吉備の諸氏族の成り立ちについて次のような
ことが書かれています。

 応神天皇の妃の兄媛(えひめ)は吉備臣の祖、御友別(みともわけ)の娘ですが、両親が
年老いたことを理由に故郷に帰りたい、と天皇に申し出ます。
 応神天皇はこれを了承し、淡路島の御原の海人80人を水夫にして兄媛を海路送り出して
やります。
 その年の秋、天皇は淡路島で狩りをおこない、それから吉備を訪問しますが、この時、御友別の
一族に対して応神天皇が行ったこととして、『日本書紀』には、

 「川島縣を長子の稲速別に与える。これは下道臣の始祖なり。次に上道縣を次男の仲彦に与える
。これは上道臣、香屋臣の始祖なり。次に三野縣を三男の弟彦に与える。これは三野臣の始祖なり。
また、波区芸縣を御友別の弟の鴨別に与える。これは笠臣の始祖なり。それから兄の浦凝別に
苑縣を与える、これは苑臣の始祖である。そして、織部を兄媛に与える」

と、記載されています。
 この伝承は前半部分が海人や瀬戸内を舞台としたもので後半が吉備氏族の成立というものに
なっています。
 もちろん、これはあくまでも伝承であり史実を語っているか否かはまた別問題となるわけで、
実際『古事記』や『日本書紀』の記事がそのまま史実として受け止めるわけにはいきません。
それでも『日本書紀』が応神朝のこととしてこの伝承を記載した背景にはそれなりの理由があった
ものと考えられます。
 そういったことで、吉備が大和王権と親密な友好関係にあったのは応神・仁徳朝の頃と考えられ
るわけなのです。

 さらに言えば吉備の造山古墳の問題です。造山古墳の造営が当時の国家規模の事業であったこと、
かつ大阪府堺市の石津ヶ丘古墳の「姉妹古墳」であることから、おそらくはこの時代に最盛期を
迎えていた葛城氏との関係も良好なものであったのでしょう。
 石津ヶ丘古墳は、仁徳天皇の子で葛城氏系の履中天皇の陵墓とされていることからもそれを窺う
ことができるかと思います。
 古墳の被葬者についても天皇陵とされている古墳であってもやはりそのまま事実とするわけには
いきません。古墳の被葬者はあくまでも記紀に記されているものを参考に指定されているだけで、
調査の結果古墳の造営時期と被葬者と伝えられている天皇が生きていた推定時期にズレが生じて
いる場合もあるのですが、大事なことは『古事記』と『日本書紀』が石津ヶ丘古墳の被葬者を
履中天皇だとしていることなのです。

 吉備と大和政権の関係がもっとも良好だったのが応神・仁徳朝時代だったとした時に、どうしても
触れなくてはならないのが、応神天皇が崩御して仁徳天皇が即位するまでの間に起きたこととして
『日本書紀』に記される出雲の淤宇宿禰(オウノスクネ)の事件です。
 この事件は、額田大中彦皇子(ヌカタノオオナカツヒコ皇子)が、倭の屯田と屯倉をわがものに
しようとしたものですが、この中で淤宇宿禰は屯田司と記されているのです。
 つまり、『日本書紀』の編纂者たちが、この時代すでに出雲臣が大和政権内で財務運営に参加して
いたと見做していたことになるからです。

 それでは、このことがなぜ重要視されるかというと、物部氏と吉備との共通点に出雲が大いに関係
しているからです。

 『日本書紀』崇神天皇六十年の記事では物部氏の武諸隅が、崇神天皇が出雲振根の持つ武日照命の
神宝を求めた際の使者として出雲に赴いた、とあり、同じ『日本書紀』の垂仁天皇二十六年の記事には、
物部十千根が出雲の神宝を検校するために出雲に赴いた、とあります。
 一方の吉備はというと、武渟川別とともに吉備津彦がその出雲振根を討伐しているのです。さらには
『古事記』のみ見えるヤマトタケルの出雲タケルを討つ話も、ヤマトタケルが吉備の血を受けている
ことから、これも吉備にまつわる伝承と見ることができるのです。