小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

508 継体王朝と蘇我氏の登場 その1

2016年06月20日 00時31分58秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生508 ―継体王朝と蘇我氏の登場 その1―
 
 
 これまでに何度も触れてきたことではありますが、今一度改めて振り返ってみたいと思い
ます。 
 16代仁徳天皇の次の17代には御子の履中天皇が就きました。次の18代には履中天皇の
弟の反正天皇が、19代にはさらにその弟の允恭天皇が就きました。
 17代から19代までの天皇は兄弟で皇位を継いでいったわけです。
 20代天皇には、允恭天皇の御子の安康天皇が即位しましたが、この時代にひとつの事件が
起こります。安康天皇が、仁徳天皇の御子で允恭天皇とは異母兄弟にあたる大日下王を
滅ぼしてしまったのです。
 しかし、その後、大日下王の遺児、目弱王によって安康天皇は暗殺されてしまい、21代
天皇に安康天皇の弟の雄略天皇が就きます。
 雄略天皇は即位する前に目弱王を討ち、続いて履中天皇の御子である市辺之忍歯王と
御馬皇子をも殺害し、市辺之忍歯王のふたりの御子、オケ王とヲケ王は逃亡しました。
 これにより、大日下王の系統と履中天皇の系統は滅亡し、允恭天皇に始まる系統だけに
なってしまったのでした。
 その允恭系も、雄略天皇の御子で22代天皇に就いた清寧天皇に子がなかったために
断絶してしまいます。
 市辺之忍歯王の妹(娘とする異説もあり)の忍海飯豊青尊の執政を挟んで23代天皇には、
明石に逃亡していたヲケ王が就きます。顕宗天皇です。
 しかし顕宗天皇は即位から三年ほどで薨去し、兄のオケ王が24代仁賢天皇として即位
したのです。
 そして、25代には仁賢天皇の御子が武烈天皇として即位します。
 
 ただし、以上のことはあくまでも男系から見たもの。
 これを女系で見るとまた違うものが見えてくるのです。
 
 16代允恭天皇の後をその御子である安康天皇、雄略天皇がついでいきますが、22代
清寧天皇は父が雄略天皇、母が葛城訶良比売で葛城氏の血が流れていたのです。
 その清寧天皇の後、葛城黒比売が生んだ忍海飯豊青尊(父は履中天皇)の摂政を挟んで
葛城荑媛(はえひめ)が生んだ顕宗天皇と仁賢天皇が即位しますが、顕宗天皇の皇后には
雄略天皇の孫とされる難波王(難波小野王)が、仁賢天皇の皇后には雄略天皇の皇女で
ある春日大郎女が皇后に立てられました。25代武烈天皇はこの春日大郎女が生んだ子
です。
 
 このように見てみると、葛城氏の血が深く関わっているだけでなく、允恭系から履中系に
替わった時も、允恭系の雄略天皇の血筋が皇后、生母として存在しており、その実態は
履中系允恭系の統一というものだったのです。
 
 ところが、男系では武烈天王に子がなかったために皇統が絶えてしまうのです。
 そもそも大日下王の皇統は允恭系に滅ぼされてしまい、その允恭系も、安康天皇によって
木梨之軽王が、雄略天皇によって境之黒日子王と八瓜之白日子王が殺害されるなど、雄略
天皇の血筋のみになってしまい、最後には清寧天皇に子がなかったために消滅してしまった
のです。
 そして、武烈天皇薨去により履中系も断絶。履中系もまた、顕宗天皇と仁賢天皇以外は
雄略天皇によって殺害されてしまっていたので、顕宗天皇薨去の後は仁賢天皇の血筋のみに
なっていたのでした。
 つまり、允恭系時代に皇族の有力な皇位継承の候補者がことごとく殺されてしまっていた
わけです。
 こういった状況は巨大古墳の造営にも反映されています。
 武烈天皇薨去の年は西暦で507年とされており、つまり6世紀のはじめのこととなります。
 この時には、大和では北部の佐紀古墳群で巨大古墳がすでに造られてなくなっており、
葛城の馬見古墳群でも狐井城山古墳を最後に巨大古墳が造られなくなってしまいます。
 河内平野でも、全国第一位の大きさを誇る大仙古墳や全国第三位の石津ヶ丘古墳を擁する
百舌鳥古墳群での巨大古墳造営がなくなっており、全国第二位の誉田御廟山古墳を擁する
古市古墳群でもこの頃を最後に巨大古墳が造営されなくなってしまうのです。
 
 そのような状況だったから、武烈天皇が薨去してしまうと、血筋の近い皇族が誰もいないと
いう現実に直面することになってしまったのです。
 
 『日本書紀』では、皇統の断絶という非常事態に際して大連の大伴金村は丹波国桑田郡に
いる倭彦王(ヤマトヒコ王)を新天皇に迎えることを主張した、と伝えます。
 倭彦王は、『日本書紀』には第14代仲哀天皇五世の孫、とありますが、朝廷では大伴金村の
この意見を採用して使者に軍勢をつけて倭彦王のもとに派遣しました。
 ところが、この軍勢を遠目に見た倭彦王は自分を攻めに来たものと思い込んで逃亡してし
まったのでした。
 これによって新天皇に倭彦王を、という目論見は消滅してしまいました。
 このような臆病者では天皇としての資質に欠ける、と判断されたわけです。
 
 振出しに戻った大和政権内では再び協議が行われ、この場で大伴金村が新たに推したのが
越前国にいる男大迹王(オヲド王)だったのです。
 後の継体天皇です。