小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

492 難波王自害の背景③

2016年04月09日 01時28分42秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生492 ―難波王自害の背景③―
 
 
 難波王は、『古事記』に石木王(イワキ王)の娘とだけあります。
 『日本書紀』には、雄略天皇と稚媛との間に生まれた御子として磐城皇子と星川皇子の名が見えるので、
石木王はこの磐城皇子のことと考えられています。
 なお、その『日本書紀』では、難波王(『日本書紀』では難波小野王)を、
 「允恭天皇の曾孫、磐城王(イワキ王)の孫、丘稚子王の娘」
としますが、この記述では、磐城王は允恭天皇の御子ということになり世代が一代ずれてしまっています。
もっとも、難波王が允恭天皇の曾孫という点だけは、石木王が磐城皇子だとした場合と一致はしますが。
 
 顕宗天皇が難波王を皇后に迎えたというのも、允恭系との結びつきを求めた、と言うよりは婿入りの形を
取った、と解釈することもできますし、それならば、允恭・安康・雄略・清寧と続いた允恭系の出身である
難波王がオケ王に対して尊大な態度を取っていたとしても不思議には思えないわけです。
 
 ところが、ここで問題となることがあります。
 たしかに允恭系にちがいはないけども、難波王の父(『日本書紀』では祖父)磐城皇子は星川皇子の
謀反に加担した人物でもあるのです。
 
 磐城皇子と星川皇子の母稚媛は、かつて吉備上道臣田狭の妻でしたが雄略天皇に奪われて妃となった
人物です。雄略天皇が薨去すると、稚姫は星川皇子に謀反を起こさせ、その際磐城皇子は謀反には反対
しましたが、星川皇子が事に及ぶとやむなく加担し、最後は母と弟とともに殺されてしまいました。
 この謀反に、異父兄の吉備上道臣兄君(前夫の吉備上道臣田狭との間に生まれた子)も加担し、吉備
上道臣家は軍船40艘で星川皇子のもとに向かいましたが、到着する前に乱は鎮圧されてしまいました。
 つまり、星川皇子の乱は吉備上道臣家をも巻き込んだものだったわけです。
 
 稚媛の前夫である吉備上道臣田狭は、朝鮮遠征中に妻を奪われ、それを恨み怒って新羅に寝返って
いることもあり、星川皇子の乱もあり、大和政権にとって吉備は何かと問題な存在となってしまっていたと
言えるでしょう。
 もっとも顕宗天皇は父が殺害された後、大和を離れて明石で過ごしたために吉備に対して悪感情を持ち
合わせていなかったのかもしれません。
 吉備と言うと、つい現在の岡山県のことと考えてしまいがちですが、『古事記』の「孝霊記」や『播磨国
風土記』などを見ると、兵庫県を流れる加古川より西は吉備の勢力圏にあったようです。明石にいた顕宗
天皇の吉備を見る目は大和のそれとは異なっていたでしょうし、雄略天皇の孫である難波王を妻に迎える
ということは允恭系との融合を意味するので、そういった事情から難波王が皇后に迎えられた可能性は
十分にあると思われます。
 また、曾祖母・祖母・母が葛城氏の女性であるという顕宗天皇にとって、その葛城氏とつながりを持つ
吉備氏はある意味特別な存在に感じていたとも想像することができます。
 
 難波王について、その名前からもうひとつ推測できることが難波吉士との関係です。皇子や皇女は、
養育した氏族の名で呼ばれることが多いので、難波王の場合も難波吉士、あるいは難波吉士と同族の
難波氏に養育されたのかもしれないわけです。
 難波吉士と言えば、これまでにも何度か採り上げたように、大日下王が殺害された時に、大日下王の
仕える難波吉士日香蚊がふたりの息子とともに殉死したこと、また、そのことで難波吉士日香蚊の子孫が
大草香部吉士(おおくさかべのきし)の姓を授けられたことが『日本書紀』に記されています。
 
 すると、顕宗天皇が難波王を皇后に迎えたことの意味は、允恭系と血縁関係を持つことで連姓氏族
たちの協力を得ることと同時に、葛城氏や吉備氏、それに大日下王系につながる皇女を迎えることで
連姓氏族たちへの牽制も働く狙いだったとも考えられるのです。
 
 しかし、難波王が皇后となったことで、「高光る日の御子」である古代大王家の太陽祭祀をめぐる問題が
発生した可能性も考えられるのです。
 
 さて、以上のことはこれまで大和と難波の太陽信仰について延々とやってきたことです。
 ここからが新しく考察していきたいことです。
 
 難波王は『日本書紀』では難波小野王と記されています。
 難波小野王の小野とは何を意味するのでしょうか。