大国主の誕生494 ―難波王自害の背景⑤―
ここでひとつだけ猿田毘古神について補足しておくと、この神が古い太陽神であったと
する説があります。
その理由は、この神が上は高天の原を照らし、下は葦原中国を照らしていた神である
ことと、その鎮座地が伊勢であったことです。
『日本書紀』の「雄略紀」に登場する伊勢の朝日郎や「伊勢国風土記逸文」に登場する
伊勢津彦なども伊勢の古い太陽神であったと言われます。
さて、少し前に採り上げたように、日吉大社はかつて比叡山の山頂に鎮座していたと
伝えられています。
糺の森から臨む夏至の朝日は比叡山の四明岳から昇り松尾山の日埼峯を刺します。
この日吉大社の神の神使は猿なのです。
同じく下野国日光二荒山の神使も猿です。
実は、湖西と日光は無関係ではないのです。
日光二荒山には、小野と猿の名を持つ人物、小野猿麻呂の伝承が残されているからです。
陸奥国小野の住人小野猿麻呂の祖父は有宇中将(ありう中将)といい、有宇中将とその妻
である朝日長者の娘は死んで二荒山の神になりました。
二荒山の神は上野国の赤城の神と争い、弓の名手である孫の小野猿麻呂に協力を求め
ます。
二荒山の神は蛇に、赤城の神はムカデの姿になって戦いましたが、猿麻呂がムカデの
左目を矢で射ぬくとムカデは退散した、というものです。
なお、小野猿麻呂の祖母が朝日長者の娘、とこの伝承にありますが。朝日長者その人に
ついての伝承は日本の各地に残るものです。
しかし、日光二荒山の伝承の場合は、二荒山の女体山の別名が朝日山というところから、
祖母が朝日長者の娘、というものになった可能性も捨てきれません。
ともあれ、朝日長者や朝日山など、朝日という名称が絡むことと、『日本書紀』の「雄略紀」に
登場する伊勢の朝日郎とは無関係ではないと思われます。
猿田毘古神が太陽神と思われることや、アメノウズメが天の岩屋戸伝承に登場することなども
含めて考えると、小野氏は太陽祭祀に関わっていたと考えられるのです。
ところで小野という地名で外せないのが兵庫県小野市です。
小野市は兵庫県の中央部に位置し、また加古川沿いにある市です。
そもそも加古川沿いには製鉄に関わる遺跡や地名が数多く残されているのですが、小野氏も
また金物の生産で有名です。小野氏が製鉄にも携わっていたとする谷川健一の指摘を思い
出せばこのことは非常に興味深いことです。
この小野市には日吉神社が鎮座し(小野市日吉町)、祭神も大山咋神と大物主神、その他
諸々の神です。
さらには、小野市市場町に猿田彦神社も鎮座します。
小野市は、元は明治22年(1889年)に旧小野町が周辺の村々と合併して小野村となり、
大正4年(1915年)に町制施行して小野町になった後、昭和29年(1954年)に周辺の村々と
合併して小野市になったもので、猿田彦神社が鎮座する市場町は旧市場村なのですが、猿田
彦神社の他にも6世紀に造られたとされる焼山古墳群も存在します。もっとも、かつては200基を
超えていたものが現在では10数基しか残っていませんが。
そして、注意を要するのはこの小野市が加古川沿いの町であり、明石市とも近いということ
です。
オケ王とヲケ王が逃亡して身を隠していた、播磨国明石郡の縮見屯倉はこの明石市にあった
のです。
このことが、難波小野王がヲケ王(顕宗天皇)の皇后に迎えられたことに何らかの関係があっ
たのではないかと想像させるのです。