小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

「を」と「は」がわからない

2016年04月24日 01時15分35秒 | 日記
 およそ1週間ぶりの更新です。
 
 すいません、またお休みさせていただきました。前回少し更新をお休み
した時は体調不良でしたが、今回はちょっと個人的な理由で・・・。
 
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2013年2月19日(火)(4歳10か月)
 
 
 春奈が最近になって平仮名の読み書きができるようになった。
 と、言っても独学である。
 
 お姉ちゃんたちが普通に字の読み書きをしているのを見てマネっこが
したくなったようだ。
 
 以前は本当にマネっこで、文字ではなく記号ばかり書きまくっていた。
 たとえば「<」、「>」、「ヘ」など。
 
 それが最近になると、人からもらった平仮名の練習帳で平仮名を覚え
てしまった。
 
 独学で平仮名を覚えることができたのは、きっと日本語の音が体の
中にかなりの量で蓄積されているからだろう。だから文字と音がリンク
するにちがいない。
 
 そんな春奈が、
 
「『を』と『お』、『わ』と『は』がわからない」
 
と、言ってきた。
 あー、わかるな、それ。最初にうちはみんなそうだもんな。
 
 僕の場合はどうやって理解できるようになったかな?ハッキリとは覚えて
いないけど、「を」と「は」はこんな使い方をする、という風に理解したような
気がする。
 
 みんなはどうなんだろう?
 
 ともかく、春奈もみんなが通る道を今通っているところだね。

494 難波王自害の背景⑤

2016年04月17日 01時53分54秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生494 ―難波王自害の背景⑤―
 
 
 ここでひとつだけ猿田毘古神について補足しておくと、この神が古い太陽神であったと
する説があります。
 その理由は、この神が上は高天の原を照らし、下は葦原中国を照らしていた神である
ことと、その鎮座地が伊勢であったことです。
 『日本書紀』の「雄略紀」に登場する伊勢の朝日郎や「伊勢国風土記逸文」に登場する
伊勢津彦なども伊勢の古い太陽神であったと言われます。
 
 さて、少し前に採り上げたように、日吉大社はかつて比叡山の山頂に鎮座していたと
伝えられています。
 糺の森から臨む夏至の朝日は比叡山の四明岳から昇り松尾山の日埼峯を刺します。
 この日吉大社の神の神使は猿なのです。
 同じく下野国日光二荒山の神使も猿です。
 
 実は、湖西と日光は無関係ではないのです。
 日光二荒山には、小野と猿の名を持つ人物、小野猿麻呂の伝承が残されているからです。
 陸奥国小野の住人小野猿麻呂の祖父は有宇中将(ありう中将)といい、有宇中将とその妻
である朝日長者の娘は死んで二荒山の神になりました。
 二荒山の神は上野国の赤城の神と争い、弓の名手である孫の小野猿麻呂に協力を求め
ます。
 二荒山の神は蛇に、赤城の神はムカデの姿になって戦いましたが、猿麻呂がムカデの
左目を矢で射ぬくとムカデは退散した、というものです。
 
 なお、小野猿麻呂の祖母が朝日長者の娘、とこの伝承にありますが。朝日長者その人に
ついての伝承は日本の各地に残るものです。
 しかし、日光二荒山の伝承の場合は、二荒山の女体山の別名が朝日山というところから、
祖母が朝日長者の娘、というものになった可能性も捨てきれません。
 
 ともあれ、朝日長者や朝日山など、朝日という名称が絡むことと、『日本書紀』の「雄略紀」に
登場する伊勢の朝日郎とは無関係ではないと思われます。
 猿田毘古神が太陽神と思われることや、アメノウズメが天の岩屋戸伝承に登場することなども
含めて考えると、小野氏は太陽祭祀に関わっていたと考えられるのです。
 
 ところで小野という地名で外せないのが兵庫県小野市です。
 小野市は兵庫県の中央部に位置し、また加古川沿いにある市です。
 そもそも加古川沿いには製鉄に関わる遺跡や地名が数多く残されているのですが、小野氏も
また金物の生産で有名です。小野氏が製鉄にも携わっていたとする谷川健一の指摘を思い
出せばこのことは非常に興味深いことです。
 この小野市には日吉神社が鎮座し(小野市日吉町)、祭神も大山咋神と大物主神、その他
諸々の神です。
 さらには、小野市市場町に猿田彦神社も鎮座します。
 小野市は、元は明治22年(1889年)に旧小野町が周辺の村々と合併して小野村となり、
大正4年(1915年)に町制施行して小野町になった後、昭和29年(1954年)に周辺の村々と
合併して小野市になったもので、猿田彦神社が鎮座する市場町は旧市場村なのですが、猿田
彦神社の他にも6世紀に造られたとされる焼山古墳群も存在します。もっとも、かつては200基を
超えていたものが現在では10数基しか残っていませんが。
 
 そして、注意を要するのはこの小野市が加古川沿いの町であり、明石市とも近いということ
です。
 オケ王とヲケ王が逃亡して身を隠していた、播磨国明石郡の縮見屯倉はこの明石市にあった
のです。
 このことが、難波小野王がヲケ王(顕宗天皇)の皇后に迎えられたことに何らかの関係があっ
たのではないかと想像させるのです。

人と人は違う

2016年04月13日 01時37分28秒 | 日記
2013年2月15日(金)(4歳10か月)
 
 
 いつものように春奈を風呂に入れていると、
りえも入ってきた。
 
 湯船のお湯でかけ湯をして、りえが、
 
 「熱っつー」
 
と、言うと、春奈が、
 
 「あつないで。春奈も入ったで」
 
と、非難するかのような口ぶりで言う。
 
 あいかわらずお姉ちゃんに対してはえらそうだ。
(ゆうきとりえも別に気にしていないけども)
 
 「春奈は平気かもしれへんけど、うちはアカン」
 
と、りえが言うと、春奈、
 
 「人は人とちゃうからな」
 
 それ、人それぞれ、って言いたいのか?
 
 最近、いろんな言いまわしなどを口にするけど、
ちょっとおしいな、ってヤツが多い。

493 難波王自害の背景④

2016年04月11日 01時39分30秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生493 ―難波王自害の背景④―
 
 
 難波小野王の小野というのは小野氏が関係るのかもしれません。
 小野氏は、『古事記』には、第5代孝昭天皇の御子、天押帯日子命(アメオシタラシヒコノミ
コト)の子孫となっています。
 その『古事記』の「孝昭記」が記すところでは、
 
 この天皇、尾張連の始祖、奥津余曽(オキツヨソ)の妹、余曽多本毘売(ヨソタホビメ)を娶ら
れてお生まれになった御子が、天押帯日子命と大倭帯日子国押人命(オオヤマトタラシヒコ
クニオシビトノミコト)。
 弟の大倭帯日子国押人命は次の天皇(註:孝安天皇)におなりになられました。
 天押帯日子命は、春日臣、大宅臣、栗田臣、小野臣、柿本臣、壱比韋臣、大坂臣、阿部臣、
多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢の飯高臣、壱師君、近淡海国造の始祖。
 
と、あります。
 
 小野氏について採り上げた書のひとつに谷川健一の『青銅の神の足跡』がありますが、この
中で谷川健一は、小野氏は製鉄に携わった氏族である、と述べています。
 この谷川健一の考察とは別に、一般には、小野氏は縫殿寮の管轄に属する朝廷の舞女を
出す氏族であり、宗教に関係する氏族と捉えられています。
 もちろん、このことも『青銅の神の足跡』の中にも書かれているのですが、とにかく谷川健一は
この書の中で、柳田國男の「神を助けた話」や橋本鉄男の「木地屋の小野神信仰序説」などを
引用しつつ小野氏にせまっています。
 それによれば、小野氏の大元は近江国大津の湖水の西、滋賀郡小野村に在る、といいます。
 その小野氏は猿女氏(猿女君)と結合します。理由は、猿女氏が近江の小野に養田が附けら
れていて、この養田を平安時代に小野氏が奪ったことによるもので、先述した小野氏が朝廷の
舞女を出すようになったのも、元はこの舞女も猿女氏から出されていたものを小野氏がその
職務を乗っ取った形なのです。
 
 『古事記』が記すところでは、猿女氏(猿女君)は、天照大御神が天の岩屋戸に隠れた時に、
天照大御神をその中から引き出すために踊った天宇受売命(アメノウズメノミコト)の子孫です。
 アメノウズメはホノニニギの天孫降臨に際して、ホノニニギに従って一緒に天降る五神のうちの
一柱に選ばれますが、いざホノニニギが天降ろうとした時に、その道中に、上は高天の原を照らし、
下は葦原中国を照らす異様な神がいました。
 そこで高木神(高皇産霊神)と天照大御神がアメノウズメを派遣して何者かと問うと、その神は、
 「僕(あ)は国つ神で名は猿田毘古神(サルタビコ神)と申します。ここにおります訳は、天つ神の
御子が天降ってこられるとお聞きしたので、その先導をいたそうと参ったのです」
と、答えたのでした。
 その後、天降ったホノニニギがアメノウズメに、
 「吾の先導を務めた猿田毘古大神は、その正体を明らかにした汝が送り奉れ。またその神の
名は汝が受け継いで仕え奉れ」
と、言ったので、アメノウズメの子孫は猿女君を称するようになった、と『古事記』は記します。
 
 なお、『日本書紀』では、この時サルダビコは、
 「吾は伊勢の狭長田の五十鈴川の川上に至るべし」
と答えており、現在も伊勢市に猿田彦神社が鎮座します。
 
 さらに『古事記』の伝えるところでは、アメノウズメは伊勢の海に住む大小の魚たちを集めて、
 「天の神の御子にお仕えするように」
と、言い渡し、これに対して魚たちが、「仕えまつります」と、答える中、ナマコだけが黙ったまま
だったので、アメノウズメが、
 「この口は返事もせぬ口か」
と、小刀でナマコの口を裂いてしまった。だから、今でもナマコの口は裂けている、といった話を
載せ、続いて、これらの故事により志摩の速贄(初物)を朝廷に献上する時には、猿女君らに下さ
れる、と記しています。

行ける時に行けばいい

2016年04月10日 01時58分12秒 | 日記
2013年2月14日(木)(4歳10か月)
 
 
 僕は毎朝携帯のアラームで起きるようにしている。
 それでふと気づくと携帯がない。
 
 どこに置いたかな、と思って周辺を捜してみるけど
見つからない。
 
 しょうがないので、家の固定電話から携帯にかけて
みる。着信音が聞こえるところが携帯の在り処なのだ
から。
 
 ところが、コールはすれども着信音が聞こえない。
 
 もしかして会社に忘れてきた?
 
 いや、会社から駐車場に向かう途中に携帯を利用
したからそれはない。
 
 あ、もしかして車の中か?きっとそうだ。そう思って、
 
 「携帯取りにいかな。アラームないと起きられへん」
 
と、言って外に出ようとした時に春奈が僕に声を掛けた。
 
 「行ける時に行けばいいやん。お医者さんとかしまって
るからな」
 
 何のこっちゃ?
 
 少し考えて、わかった。
 
 先日僕が整骨院に行ってそこに携帯を忘れてきたことが
あった。
 
 それで、春奈はまた整骨院に忘れてきたのか、と思い、
 
 「今は閉まっているので開いている時間に取りに行けば?」
 
と、言いたかったのだろう。
 
 行ける時に行けばいい、っていうのは、「行ける時」=「開い
ている時」ってことか。そういう意味やんね?
 
 春奈の言葉も、まだまだ、こんな風に想像力を働かさなければ
理解できない時がある。
 
 それでも想像すれば理解できるというのも、それだけお互いに
普段の行動などを知っているからなのだけど。
 
 やっぱり、言葉が通じ合う、というのはお互いの関係性による
ところが大きい。