小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

496 難波王自害の背景⑦

2016年04月28日 01時47分12秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生496 ―難波王自害の背景⑦―
 
 
 難波王が自害した理由は、顕宗天皇の皇后であった難波王が天皇の兄のオケ王に対して
不遜な態度を取ったことから、それを罪に問われることを恐れたため、と『日本書紀』は記します。
 顕宗天皇崩御の後、オケ王が仁賢天皇として即位しますがそれにともない后が皇后の位に
就きます。
 仁賢天皇の皇后は、『古事記』、『日本書紀』がともに春日大郎女(かすがのおおいらつめ)
とし、ともに雄略天皇の皇女とします。
 難波王の父のイワキ王は雄略天皇の御子の磐城皇子だと考えられているので、難波王は
雄略天皇の孫ということになります。
 春日大郎女は、『古事記』は雄略天皇の皇女としながらも、「雄略記」の后妃と御子を記す
箇所にはその生母とともにその名が見えません。
 これに対して『日本書紀』の方は、「雄略紀」に、
 
 「春日和珥臣深目が娘有り。童女君と曰う。春日大郎女皇女、またの名は高橋皇女を生めり」
 
とあります。
 
 春日大郎女の母童女君(おぎなのきみ)の父を、春日和珥臣深目(かすがのわにのおみふかめ)
と記すことから、春日氏が和邇氏から分かれた氏族とする説があり、かつては広く支持された
こともありました。
 もっとも、『古事記』の「孝昭記」には、小野臣、柿本臣、壱比韋臣(市井臣)とともに、春日臣も
天押帯日子命の系譜に記されていることなどもあり、現在は和邇氏と春日氏は別の氏族とする
説の方が有力です。
 
 ところで、童女君と春日大郎女の母娘についてのエピソードが『日本書紀』に載せられています。
それは次のようなものです。
 
 雄略元年三月 童女君という元采女が天皇と一夜をともにしただけで懐妊して女の子を生んだ
が、天皇はこれを疑って養おうとしなかった。
 その後のこと、宮中を歩く幼いその女の子を不思議に思って顔をのぞいた物部目大連が、その
容姿が天皇に似ていることに気付き、事情を知ると、天皇に、
 「その夜何度お招きになられたのですか?」
と、訊くと、
 「7回いたした」
 そこで物部目大連(もののべのめのおむらじ)が、
 「私が聞いたことのあるかぎりでは、妊娠しやすい体質の女性もいるそうです。一夜のこととは
言え7回もされたなら子もできましょう」
と、意見したので天皇は女の子を認知した。
 
 この説話では、春日大郎女を身籠った上で童女君が入内したと思い込んでいた雄略天皇を物部
目大連がこれを認知させたという、物部氏が関係するものになっていますが、実際に物部氏と
春日氏が結びついたのが石上神宮です。
 
 石上神宮は、諸氏族に献上させた神宝などを管理する場所でもありましたが、その倉を管理して
いたのが物部連(むらじ)、石上神宮の祭祀を担当していたのが物部首(おびと)でした。
 物部連がニギハヤヒを祖にするのに対し、物部首は春日臣の出身だったのです。
 このことは『日本書紀』の「垂仁紀」に次のように記されています。
 
 「垂仁天皇三十九年に五十瓊敷命が剣一千口を石上神宮に納めたところ、神が『春日臣の族
市河に治めさせよ』と託宣があり、この春日臣市河が物部首の始祖である」
 
 物部首は後の布留宿禰(ふるのすくね)に名を変えますが、そもそも最初に春日臣から分かれた
者たちが物部の名を称したことについては、松前健(『大和国家と神話伝承』)が、物部連の統属下に
置かれるようになり、そのために物部を名乗るようになったのではないか、と考察しています。
 
 そして、これも春日氏と和邇氏が同族ではないかとする説の拠り所のひとつでもあるのですが、
この石上神宮と和邇氏の関連を考えさせられる神社が吉備に存在するのです。