小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

韓国の思い出?

2014年10月14日 23時49分31秒 | 日記
2011年2月15日(木)


 時々春奈が、みんたと一緒にこの夏に行ってきた韓国交流の
断片を話す時がある。

 今日も何気に、

 「韓国行ってたのしかった。韓国じゃないけどお風呂が広かった」

と、言った。

 日本から韓国に渡るフェリーの浴場のことで、これがいたく
気に入ったらしい。

 これまでも交流報告をするたびに、

 「お風呂が広かった」

と、言ってはみんたから、

 「それ韓国とちゃうやん」

と、つっこまれていた。

 それで春奈も学習したのか、今日は、「韓国じゃないけど」と
言っていた。

 でも、途中の移動も交流のうちではなかろうか???

 ヒッポファミリークラブでも、

 「交流は行って帰ってくるまでが交流」

って、言ってるもんな。

261 流浪の二皇子

2014年10月14日 23時46分24秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生261 ―流浪の二皇子―


 履中系の市辺之押歯王と御馬王の兄弟は葛城の曾都毘古の娘を祖母に持ち、葛城曾都
毘古の子、葦田宿禰の娘を母に持ち、しかも市辺之押歯王も 葛城葦田宿禰の子、蟻臣の
娘荑媛(はえひめ)を妻に持つ、という、葛城氏にとってはまさにサラブレッドだった
のです。

 允恭系は、允恭天皇の時に葛城玉田宿禰を滅ぼし、雄略天皇が葛城円大臣を滅ぼし、
さらに市辺之押歯王と御馬王兄弟を滅ぼしましたが、その雄略天皇が、自らが滅ぼした
円大物の娘、韓比売(訶良比売とも)を妃に迎えているなど、葛城氏の影響力は無視で
きないものがあったようです。

 市辺之押歯王のふたりの皇子、意祁王(オケノミコ)と袁祁王(ヲケノミコ)は、父
が大長谷王に殺害されたという報せを受けて逃走します。
 山代の苅羽井に来たところで食事を取っていますと、顔に入墨を入れた老人が来て、
ふたりの食事を奪ってしまいました。
 ふたりが、
 「食事は惜しくない。だが、そなたは何者だ?」
と、問うと、
 「わしは、山代の猪甘(いかい)だ」
と、老人は答えました。猪甘とは猪を飼う仕事に従事する者のことです。
 二皇子はさらに逃げて、玖須婆(現在の大阪府枚方市楠葉)の川を渡り、針間(播磨)
に行き、播磨の国人、志自牟(しじむ)に、身分を隠して馬飼、牛飼として仕えたので
した。

 ただ、『古事記』には、「国人、名は志自牟」とあるのに対して、『日本書紀』の方は、
「播磨国明石郡の縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)の忍海部造細目(おしぬみべの
みやつこほそめ)とあります。
 また、『播磨国風土記』には、志深(しじみ)の村の首、伊等尾(いとみ)とあります。
 そうすると、志自牟(しじむ)とは「しじみ」のことで、兵庫県三木市志染町に比定さ
れる地名であり、人物名ではないという解釈になります。

 それから、『日本書紀』には、二皇子の逃走を手伝った親子が登場します。
 日下部連使主(くさかべのむらじおみ)とその子吾田彦(あたひこ)のふたりです。
 なお、日下部連使主の使主は姓(かばね)ではなく人名です。
 使主は丹波国余社郡(後に丹後国与謝郡)に二皇子を連れて行き、そこで名を田疾来
(たとく)と改めますが、なおも追手が来るのを恐れて播磨国の縮見山の石室に二皇子を
連れて行き、この地で自決します。

 その後、二皇子と吾田彦は忍海部造細目に仕え、吾田彦は二皇子に離れることなく従った、
といいます。

 二皇子が潜伏している間、大和では雄略天皇の治世が訪れ、やがて雄略天皇の子、清寧
皇が即位します。
 ところが、清寧天皇には后妃なく、当然子もいないままに薨去してしまったので、市辺
之押歯王の妹、忍海郎女、またの名を飯豊王(イイトヨノヒメミコ)が国を治めることに
なりました。
 その時代に、山部連小楯(やまべのむらじおだて)が播磨の宰(後の国司にあたる役職
)として赴任してきました。
 ちょうど志自牟は家を新築したところで、新築祝の宴を催し、そこに小楯も招かれました。
 この席で、二皇子のうち弟のヲケノミコが舞い、その中で、
 「吾は履中天皇の御子市辺之押歯王の子なり」
と、歌ったので、小楯は大変驚き、かつ二皇子のために仮宮を造ってそこに遷らせると、
大和の飯豊王(市辺之押歯王の妹)に二皇子発見の急使を送ったのでした。

 ただし、この辺りのことも『日本書紀』は若干異なります。
 二皇子の発見は、『日本書紀』では清寧天皇存命中の清寧二年の出来事として記されてい
るのです。
 この年の11月に、播磨国司山部連の祖伊予来目部小楯(いよのくめべのおだて)が新嘗
の供物を求めていた時に、縮見屯倉首の忍海部造細目の新築祝の宴に参加して二皇子を発見
した、とあります。

 二皇子のうち、兄のオケノミコが仁賢天皇、弟のヲケノミコが顕宗天皇となりますが、しかし、
これはまだ少し先のこと。

春奈の九九

2014年10月14日 00時51分07秒 | 日記
2011年12月14日(水)(3歳8か月)


 いつものように春奈を風呂に入れてやっている時のこと。

 浴室の壁に貼ってある九九の計算表を眺めていた春奈が、

 「6には3と4が2つずつあるな」

と、言いだした。

 何のことかと思って訊くと、

 6×5=30と6×6=30の組み合わせと、6×7=42と
6×8=48の組み合わせのことだった。

 10の位が3になる組み合わせが2つ、4になる組み合わせが
2つ。

と、言うのである。

 「1(10の位が1になる式)も2つ(6×2=12と6×3=18)
やで」

と、言ってやると、
 
 「ホンマやなあ」

と、言いながら、さらに計算表をしげしげと見つめ、

 「こっち(7の段)は、2と4が2つやなあ」

と、言う。

 たしかに10の位が同じになる式は、7×3=21と7×4=28、
それに7×6=42と7×7=49の2つだ。

 「こっち(8の段)は、1コだけ」

 本当だ。8×5=40、8×6=48の1パターンだけだ。

 なるほど。5の段は、10の位が同じパターンが4つある。6の
段が3つ、7の段が2つ、8の段が1つで、9の段は0。

 反対に、5以下はその対象で、4の段が3つ、3の段が2つ、
2の段が1つで、1の段は0になる。

 5の段を中心にして、あたかも左右対称のようになっている。

 こんな風に掛け算を読み取れるのは、春奈が九九を習っていない
からだろう。

 自然に九九を眺めていたからこそのものだ。

 物理だって、幼児は単純に、と言うか自然で、「どうなっている
んだろう?」、「不思議だなあ」と思える。

 算数も春奈のように眺めるとなかなか面白いなあ。

260 市辺之押歯王の受難

2014年10月14日 00時47分18秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生260 ―市辺之押歯王の受難―


 何度も繰り返すようですが、16代仁徳天皇の皇子たちは5人いました。
 髪長比売の生んだ大日下王。
 石之日売命の生んだ、履中天皇、墨江中津王、反正天皇、允恭天皇。
 仁徳天皇の後は履中天皇が継ぎ、その後は、反正・允恭と弟が皇位を継いで
行きます。
 墨江中津王は謀反を起こして処されていましたので、允恭天皇薨去の時には、
大日下王のみ存命でした。
 しかし、允恭天皇は自分の次はわが子を皇位に就けようと、長子の木梨之軽王
を皇太子にしたのです。
 皇位は木梨之軽王ではなく同母弟の安康天皇が継ぎ、続いて末弟の雄略天皇が
継ぎましたので、皇位は允恭天皇の系統に継がれていくことになったのです。
 その中で、唯一残っていた仁徳天皇皇子の大日下王は安康天皇に殺害され、
その遺児目弱王も雄略天皇によって滅ぼされてしまいました。
この大日下王系と允恭系の他にも、履中系と反正系がありますが、反正天皇の皇子
については不祥な部分が多い。と、言うのも、反正天皇の子について、『古事記』は、
 「財王(タカラノミコ)と多訶弁郎女(タカベノイラツメ)」
とし、『日本書紀』は、
「財皇女と高部皇子(タカベノミコ)」
と、真逆のことが記されているからです。
 これに対して履中系の方ははっきりしています。
 履中天皇の生母は葛城曾都毘古の娘石之日売ですが、履中天皇も、葛城氏の娘
(曾都毘古の子、葦田宿禰の娘黒比売)を皇后に迎えて、市辺之押歯王、御馬王、
青海郎女をもうけているのです。
 大日下王と目弱王の滅亡後は、事実上、履中系と允恭系の2系統に王位継承権が
あったとみてよいでしょう。
 たしかに、天皇の位は、允恭系の安康・雄略のふたりに受け継がれ、その次には
雄略天皇の子清寧天皇に受け継がれます。
 しかし、允恭天皇は履中天皇の弟であり、履中系こそが本来の嫡流なのです。
 『日本書紀』には、安康天皇が、次の天皇は市辺之押歯王(イチノベノオシハノ
ミコ)を考えていたので、雄略天皇は市辺之押歯王を恨んでいたことが記されてい
ます。

 そして、『古事記』と『日本書紀』は履中系のふたりの皇子の受難を伝えている
のです。

 目弱王の乱の後、近江の佐々紀山君(ささきのやまのきみ)祖の韓帒(からぶくろ)
が、大長谷王に、
 「近江の久多綿(くたわた)の蚊屋野(かやの)には猪や鹿がたくさんおり、狩り
をするにはよい土地でございます」
と、言ったので、大長谷王は、市辺之押歯王を誘って狩りに出かけました。
 その地に着き、ふたりの王はそれぞれ仮宮を作って宿泊しました。
 翌朝、まだ日が昇っていないうちに押歯王が馬に乗って大長谷王の仮宮にやって
来ますと、大長谷王の近臣に、
 「まだ寝ておられるのか。なら早急に伝えてくれ。夜はすでに明けた。狩場においで
なさい、とね」
と、告げると、馬を返して出かけていったのでした。
 近臣たちは、
 「いやなことを申される王でございます。どうかご用心ください。それから、武装
された方がよろしいかと」
と、大長谷王に言いました。
 大長谷王は、衣の下に鎧を着こむと弓矢を手にして馬に乗ると、狩場に行き、先に
来ていた押歯王を射落とすと、切り刻んでしまいます。
 そして、その遺体を馬の飼葉桶に入れると、盛土で塚を作ることもなく地面に埋めて
しまったのでした。

 『古事記』の記載は、近臣が押歯王の謀反を疑い、大長谷王はその言葉に従って押歯王
を殺害したという体裁をとっていますが、『日本書紀』にはその記述はなく、初めから
謀殺するつもりで狩に誘った形になっています。
 そして、随行していた押歯王の近臣たちも皆殺しにしてしまった、と『日本書紀』は
伝えます。

 さらに、『日本書紀』は押歯王殺害と同じ月の出来事として次のような伝承を載せて
います。

 押歯王の弟の御馬王が、日頃から親しくしている三輪君身狭(みわのきみむさ)を訪ね
ようと出かけると、道中に軍勢が現れ、三輪の磐井の池のほとりで戦闘になりました。
 王たちはしばらくの間は防戦しましたがやがて捕らえられ斬られてしまいます。
 ただ、処刑される時に、磐井の池を指さして、
 「この水は人民のみ飲むことができる。王者ひとり飲むことができない」
と呪詛をした、と『日本書紀』にはあります。

 かくして、履中天皇が遺したふたりの皇子はともに抹殺されてしまったのでした。
 もっとも、これで履中系が断絶してしまったわけではありません。

 市辺之押歯王の妹(『日本書紀』では市辺之押歯王の娘)飯豊王がいましたし、何より
も市辺之押歯王のふたりの皇子が生き延びたからです。