小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

3人でにぎやか

2014年10月13日 02時35分33秒 | 日記
2011年12月13日(火)(3歳8か月)


 毎週火曜日の北野田ファミリーから帰ると、速攻で
春奈を風呂に入れてやる。

 今日はゆうきも一緒に、3人で風呂に入った。

 春奈が言う。

 「3人で風呂入ってえらいな」

 「何が?」

 「いやいやいや、3人で風呂入ってにぎやかやな」

 いやいやいや、って何だよ。

 しかし、にぎやかとか、そんな表現をするか。

 ま、はずしてはいないけど。

 「えらい」には「大変だ」の意味もあるからね。

 それに、人が大勢いることを「にぎやかだ」とも言う。

 言葉の雰囲気的には「にぎやか」でも間違ってはいない、
と思う。

 裏を返せば、春奈も言葉の意味を雰囲気で捉えている
部分も多いということなんだろうけど。

259 根臣の後日談

2014年10月13日 02時31分27秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生259 ―根臣の後日談―


 それでも、目弱王の乱の一番の原因は根臣の虚言にあるわけです。
 その後日談と言うべき伝承が『日本書紀』には記されています。

 雄略天皇14年に、雄略天皇が呉人たちを招いて会食を行おうとしました。
 その接待係に任命されたのが根使主(根臣)だったのです。
 天皇が、石上の高抜原に設営された会場へ、舎人に装飾を視察に行かせました。
 その舎人が戻ってきて天皇に報告をしました中に、
 「根使主が身に着けられておられた玉縵が大層すばらしいものでした。本番の時にも
着けられるそうです」
と、いうものがありました。
 その言葉に天皇は、
 「それはぜひ1度見てみたいものだ」
と、望まれ、本番で着る衣裳を着て宮殿に来るよう命じましたが、宮殿に現れた根使主の
姿を見た皇后は急に泣き出しました。
 天皇が、その理由を訪ねますと、
 「この玉縵はその昔、大草香王(大日下王)が安康天皇より、私をあなたに進(たてまつ)
るよう、勅命を承った時に、兄が礼物として献上したものです」
と、答えたので、天皇は驚き、続いて激怒して根使主を詰問しますと、根使主は、
 「間違いございません。死罪となっても仕方ありません」
と、答えました。
 天皇は、その場で斬り捨てようとする勢いで、根使主は日根(現在の大阪府泉佐野市周辺)
に逃げますと、そこに稲城を築いて籠城しました。
 しかし、天皇の送った軍の前に敗れ去り斬られたのでした。
 戦いの後、天皇は根使主の一族を2つに分け、一方を大草香部民(おおくさかべのたみ)
として皇后に与え、もう一方を負嚢者(ふくろかつぎびと)にして茅渟県主に与えました。
 さらに、大草香王が殺害された時に、王に殉死した難波吉士日香香(なにわのきしひかか)
とその二人の息子の子孫を探し出して、大草香部吉士(おおくさかべのきし)の姓を授け
ました。
 その後、根使主の子、小根使主は、人に、
 「天皇の城は堅固にあらず。わが父の城は堅固なり」
と、語ったのが天皇の知るところとなり、家臣に根使主の邸宅を見に行かせたところ、本当に
立派過ぎる邸宅であったので、小根使主を捕らえて処刑してしまいました。
 根使主の本宗はこれより後は坂本臣となりました。

 この伝承の最後には、根使主の一族が坂本臣となった、と記されますが、『古事記』にも、
「坂本臣の祖根臣」と記されています。
 さらに、『古事記』によれば、坂本臣は建内宿禰の子孫とあります。
 建内宿禰には7人の息子がいましたが、そのひとりに葛城氏の祖葛城曾都毘古がいるのです
が、他の6人のうち、木角宿禰(キノツヌノスクネ)が坂本臣の祖だとします。
 それは、

 「木角宿禰(キノツヌノスクネ)は、木臣、都奴臣、坂本臣の祖」

と、記しますから、坂本臣の直接の祖である根臣は葛城氏と同族ということになるのです。
 もっとも、建内宿禰の系図は、後世に、諸豪族の結びつきの中で作られたものと考えられて
いますので、根臣と葛城氏がどれほどの結びつきがあったのかについては不明なのですが。

 ただし、葛城氏が伝承上では大阪府から兵庫県にかけて勢力を広げていましたが、根臣の
本拠もどうやら大阪府のようなのです。
 それと言うのも、根使主が稲城を造り籠城した日根は、大阪府にあった日根郡(現在も
大阪府泉佐野市に日根野の地名を残しています)のことと解釈されていますし、坂本氏の
本拠も大阪府和泉市の阪本町や東阪本町だとされているのです。

 最後に、雄略天皇が、根使主の邸宅が立派だったことで小根使主を処刑してしまったという
伝承は、『古事記』に登場する、志幾大県主の邸宅が鰹木を構えていたことに立腹した雄略天皇
が焼き払おうとした伝承に共通します。
 ただし、同じ大阪府でも、志幾大県主が旧河内国の勢力であり、根臣・坂本臣は旧和泉国の
勢力です。
 これは、大和より西の豪族たちが完全に大和政権の支配下には置かれておらず連合体としての
半独立性を有していたと解釈するべきなのでしょうか。
 葛城氏の滅亡は、大和政権が大和より西を完全支配下化する足がかかりでもあったと言える
でしょう。