小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

大人って・・・?

2014年10月07日 00時43分43秒 | 日記
2011年12月6日(火)(3歳8か月)

 春奈が、

 「はるな、こども?」

と、尋ねてきた。

 いかにも幼児らしい質問だ。

 「子供やで」

と、答えてやると、今度は、

 「お父さんはおとな?」

と、訊いてきた。

 「あ・・ああ・・そやで」

 なぜこの質問には即答できないのだろう?大人って不思議だ。

 これって、大人と子供では、「大人」、「子供」の意味が
違うからだろう。

 子供が捉えている「大人」、「子供」の意味は、年齢的な
ものだ。

 一方、大人が捉えている「大人」、「子供」の意味は、これの
他に、人間としての成熟度を指す。

 その点、春奈は、まだ意味が曖昧な状態だ。

 ただ、何となく、自分は子供らしい、お父さんとお母さんは
大人のようだ、と感じている。

 何となく理解している状態から、だんだんと意味がくっきり
していき、いずれは別の意味も知ることになるわけですな。

253 葛城玉田宿禰の滅亡

2014年10月07日 00時40分57秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生253 ―葛城玉田宿禰の滅亡―


 このように、丹後地方とつながりを持つ伝承が残されているのは、葛城氏がある程度は
実際に他の地方勢力とつながりを有していたと見てもよいでしょう。
 前回に登場した葛城の垂水宿禰ですが、門脇禎二(『葛城と古代国家』)は、垂水宿禰
を伝承上の人物であろう、としながらも、名前の垂水を兵庫県の垂水(神戸市垂水区)の
ことだと考察しています。

 「つまり、葛城から河内へ出て和泉の茅渟から海路で垂水に上がり、ふたたび陸路で
加古川沿いを氷上に出て丹波から丹後へとつながるルートである」
 (門脇禎二『葛城と古代国家』より抜粋)

 葛城の勢力が、大和の中にありながら、大和政権に対抗するほどの力を誇っていた、と
考える研究者も少なくはありません。
 前出の門脇禎二も、後に大和国に、倭国造と葛城国造が置かれたことから、倭国と葛城国
があった、としますが、一国内に2人以上の国造が置かれた例は他にも存在しますので、それ
だけで葛城の独立性を認めることはできないでしょう。

 鳥越憲三郎は代表的な著作『神々と天皇の間』などで葛城王朝の存在を主張します。
 この説によれば、いわゆる欠史八代(2代綏靖天王から9代開化天皇までの8人の天皇)の
中に、葛城に宮を置いた天皇が数名いることから、三輪王朝と葛城王朝の2つの王朝が並立
したが崇神天皇によって葛城王朝は滅ぼされた、となります。

 何しろ資料が少ないがため、このように、この時代の葛城の勢力については推理と想像に
任せざるを得ないわけですが、研究者たちの間でほぼ一致するのが、葛城はいくつかの勢力
による連合体であり、葛城氏と呼ばれる氏族は葛城の曾都毘古から始まる、ということです。
 もっとも、葛城の曾都毘古その人の実在性についても意見の分かれるところであり、そう
すると、その実在性を認めてもよい、となるのは曾都毘古の子の、葛城玉田宿禰と葛城葦田
宿禰のふたりからになります。
 (註:玉田宿禰については、『日本書紀』の允恭天皇5年の記事には葛城玉田宿禰は葛城
襲津彦の孫と記されていますが、『日本書紀』の雄略天皇7年の記事には葛城襲津彦の子、
となっています)

 18代反正天皇が薨去し、弟の允恭天皇が即位しますと、葛城玉田宿禰は反正天皇の殯
(もがり=葬儀)の担当者、殯宮大夫に任命されます。
 しかし、これが結果として葛城玉田宿禰の滅亡につながるのです。
 『日本書紀』から、そのあらましを見てみます。

 允恭天皇5年の7月に地震が起きました。
 天皇は尾張連吾襲(あそ)に命じて殯宮が無事かどうか様子を見に行かせました。
 吾襲が殯宮に行ってみると、近臣たちがみな駈けつけていましたが、その中に肝心の責任者
である玉田宿禰の姿がありません。
 吾襲は天皇の元に戻ると、
 「殯宮大夫の玉田宿禰は殯の所におられませんでした」
と、報告します。
 そこで、天皇は、吾襲に、今度は玉田宿禰のところに様子をたずねに行かせました。
 ところが、吾襲が玉田宿禰の邸宅を訪れてみますと、玉田宿禰は大勢の人を招いての酒宴
を催していたのでした。
 吾襲が、自分がここにやって来た理由を告げますと、玉田宿禰は自身の失態が天皇に露見
するのを恐れて、吾襲に礼幣として馬を一頭授けて帰らせると、次に刺客を放って道中の吾襲
を暗殺し、それから建内宿禰の墓所に隠れてしまったのでした。
 それでも、結局このいきさつは天皇の知るところとなり、天皇は玉田宿禰を召喚します。
 玉田宿禰は、これはきっと自分に死を賜るつまりではないか、と疑い、服の下に冑を着て参内
したのでした。
 しかし、天皇は玉田宿禰の服の下から冑の端が見えたので、小墾田采女に確かめさせます。
 小墾田宿禰は玉田宿禰に酒を賜って、その時に玉田宿禰がやはり冑を着込んでいることを
確認しますと、これを天皇に告げたのでした。
 そこで、天皇は兵を宮殿に入れて玉田宿禰を殺してしまおうとしますが、玉田宿禰はこれを
察知すると、密かに脱出して自宅に隠れてしまったのです。
 ここに天皇は軍を差し向けて玉田宿禰の邸宅を囲み、ついには玉田宿禰を捕らえて処刑した
のでした。