★さちの夢空間

さちの身辺雑記。
ときどき情報の交換も。

敗戦そして引き揚げ その2

2005-08-16 18:25:58 | 暮らし



岡山での滞在も2週間ともなると、わたしはいとこたちとも
仲良くなり、ことばもすっかり岡山弁になっていたといいます。
岡山の言葉は語尾に「~じゃけん」と付きます。
この「けん」のおんが、私にはとても心地よく思えたのでした。

平穏な毎日がこのまま続くのかと思っていたら、突然私たちの
支えであった義姉が亡くなってしまいました。
それも5人の子どもを道連れに心中するという、なんとも痛ましい形で。
その義姉も夫は召集され、生死がわからないままでした。
私たちは支えを失って、そこに居づらくなりました。
義姉の供養もそこそこに、今度は母の実の姉が住む
岐阜に行くことになりました。

叔母もまた、将校だった夫はシベリアに抑留され
大学生の一人息子と二人暮らしでした。
叔母の住んでいた将校の宿舎は、5部屋あり中庭まで付いた立派なものでした。
ある日、三人でお風呂に入っているとき妹が粗相をしました。
そのことを叔母はたいそう嫌がり、
「私は他家へ嫁いだ身だ。主人もいつ帰ってくるか分からないし」と
暗に出て行って欲しいと言うそぶりでした。
岐阜というまったく見知らぬ土地へ来た私たちは、
とりあえず引揚者を収容している施設に入りました。
それは紡績工場の寮だったり、軍隊の宿舎だったり
大きな空間に、何十所帯も一緒に暮らすものでした。
そして運命の11月14日が訪れます。

それは七五三の前日でした。食べるものにも事欠く時代でしたが、
チンタオから持って帰ってきた晴れ着があったので、妹にそれを着せて
お祝いをしようということになりました。
妹は着るのをいやがり、キヤッ、キヤッと笑いながら逃げ回っていました。
サツマイモの昼食後、私と妹は連隊の兵隊さんと遊んでいました。
その日は、むしめがねで太陽の光を集めて紙を燃す遊びでした。
私は夢中になって兵隊さんの手元を見つめていました。

どれくらいたったのでしょうか、わたしはふと後ろを振り返りました。
いつもいるはずの妹が見えません。
あれ?不安になった私は妹を探しました。
どうしてもみつからないので母に話すと、同じ寮の引揚者の人たちも
手分けして探し始めてくれました。
妹はどこにもいません。1時間ほど過ぎたとき母は、
「ここじゃないかしら?」と防火用水を指差しました。
それは防空壕に水を張ったものでかなりの深さでした。

母は竹ざおを持ってきて、必死で用水の水をかき回しました。
すると、ロンパスのたすきにひっかかった妹が浮いてきました。
すぐ病院へつれて行き、人工呼吸をしてもらいました。
まだ生暖かかったのですが、栄養状態も悪かったため体力が無く、
助かりませんでした。下駄を履いていたら、あるいはそれが浮いてきて、
早く見つけられたかもしれません。
しかし、妹はあいにく革靴をはいていました。
それも甲のところをバンドで止めるスタイルです。
この赤い靴は彼女のお気に入りだったので、引き上げのとき使った
トランクとともにまだ保存してあります。


 ☆私の三歳のときの七五三 青島神社にて



妹もこの着物を着るはずだった。


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4 コメント

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言葉が。。。 (ちょびママ)
2005-08-17 00:25:30
見つからないのですよ。

何と言えばいいのか。。。

とにかく大変な時代を生き抜いてこられましたね。

戦争が終わっても、こんな風に命を落とす方が多数いたというのがとても悲しくて。。。

戦争は終わっても、こんな悲劇が続くと言うのは終わってないって事なんですよね。

そして今も苦しんでる方が多数いらっしゃるという事は終わってないと言う事なんですよね。

何言ってるのかよくわかんなくなってきました。

さちさん、よく辛い体験を綴られましたね。

淡々と綴られてるだけに余計、胸にしみました。
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子供って・・・ (てるてる)
2005-08-17 20:53:27
とても悲しい出来事ですね。私も子どもが小さい時、庭の井戸に落ちないかと心配でした。義祖母や義母の反対もありましたが、穴が所々開いた特製の蓋をすることで了解をもらい、井戸に蓋をしました。

子供って好奇心のかたまりですものね。

実は、主人の弟が4歳の時、井戸の側に置いてあったつぼに頭から落ちてしまったそうです。たまたま座敷にいたおばが気づき、大事にならなかったそうですが・・・。



さちさんのさちは「幸」という漢字が当てはまりますよね。これからも「幸」がありますように。

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Unknown (さち)
2005-08-18 11:44:03
ちょびママさん



あの時代は、周りの人すべてが、何らかの戦争の被害をこうむっていました。だから生きてこられたのだと思います。

むしろ平和な時代に災難に合うほうが、まわりが幸せに暮らしているだけに、かえって大変だと思うんですよ。
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Unknown (さち)
2005-08-18 11:53:33
てるてるさん



義理の弟さん、大事にならなくてよかったですね。昔は深い井戸が、いたるところにありましたね。



てるてるさんの言われるように、子どもは水が大好きですから、大人が事故の起きないように、手立てを考えなくてはいけませんね。



<さちさんのさちは「幸」という漢字が当てはまりますよね。これからも「幸」がありますように。



ありがとうございます。

平和が続き、すべての人に幸あれと祈りたいですね。

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