ときどき原稿を書いている。
今日のブログは、最新の通信に書いた記事を載せることにした。
「薬害C型肝炎」とわたし
今から17年前(1992年)、50歳検診で肝機能の異常が見つかった。
数値が3桁、昨年までまったく異常がなかったのになぜ?
まさに晴天の霹靂だった。異常値が6ヶ月続いたところでC型ウイルスによる慢性肝炎(以下「C肝」)と診断された。とりあえず週に2回「強力ネオミノファーゲン」という注射を続けることになった。週2回の静脈注射は楽なようだが、血管が硬くなってくると結構つらい。感染症などで薬を飲んだりするとすぐ数値が上がる。すると注射の回数が増える。なぜこんな病気になったのだろう?
1996年にHIV訴訟の和解が成立したが、被害者の9割以上がHCV(C型肝炎ウイルス)にも感染していることが分かり、その中でフィブリノゲン製剤が注目され始めた。
この製剤は1964年に製造が始まっており、手術やお産で出血が止まらない人にもかなり使われていた。これだったのだ!
わたしは1969年に出産し、その際、弛緩性出血を起し、止血のために長時間点滴をしていた。主治医や知り合いの医師にそのことを話すと、「あなたのC肝は99%フィブリノゲンが原因でしょう」といわれた。
しかし、出産した病院はフィブリノゲン製剤納入医療機関に載っていたものの、医師は亡くなり廃院となっていた。
このフィブリノゲン製剤は、アメリカでは効力に疑義があるということで、
1977年にFDA(食品医薬品局)が承認を取り消している。
にもかかわらず、日本ではその後20年にわたって使われ続けてきた。
この違いはどこから来るのだろう。日本政府ならびに製薬会社の経済優先、人命軽視にほかならない。
ある日すっかり成長した息子がぽつんと言った。「お母さんはぼくを生まなければこんな病気にならないで済んだんだね」。わたしは一瞬ことばを失った。「ぼくは肝移植も考えている。必要なときはいつでも言ってね」。この病気は、こんなかたちで息子の心まで苦しめていたのだ。
2002年、薬害肝炎訴訟が提訴され、原告の方たちが病身をおして裁判を闘ってこられた。6年に及ぶ闘いののち、今年1月「薬害肝炎被害救済法」が成立し、新聞やテレビに「全員救済!」の文字が躍った。わたしはC肝であることをカムアウトしていたので、友人たちから「よかったね。おめでとう!」と声をかけられたり、電話がかかったりした。
その度に「法律の対象は裁判を闘ってきた原告さんで、わたしは証拠がなくて提訴できなかった」というと「えっそうなの。あの全員救済は肝炎の患者さん全部だと思った」という人が多かった。
血液製剤や、注射器の回し打ちなどで肝炎患者は350万人ともいわれている。こんな事態を招いた国の医療行政や製薬会社の責任を糾していかなければならない。
そして、二度と薬害による被害者が出ないよう、ことばだけではなく、実態の伴った「薬害の根絶」を目指していかなければならない。
わたしはさまざまな代替治療が功を奏しているのか、今日まで生きてこられた。しかし、これからも血液検査、エコー、年に1~2回のMRI、CT、胃カメラ。そして日常的に注射、投薬は欠かせない。今までどれだけの医療費をつぎ込んできたことか。怖くて計算できない。
いまいちばん不安なのは、年金暮らしの中で医療費がいつまで捻出できるかだ。確かに、4月1日からインターフェロン治療に助成金が支給されるようにはなった。しかし、この治療は副作用がひどく、効き目もかなり個体差があり、わたしのように治療できない段階の人も多い。
いま、裁判に続いて原告・弁護団が中心になって、医療費の助成を求める運動が展開されている。また、今国会で「肝炎対策基本法案」が継続審議になった。秋の臨時国会では患者サイドに立った改善策を盛り込んだ法律として、ぜひ可決成立させて欲しい。
いのちには限りがあるのだから。(『む・しの音通信66号』)
自己の過失でかかった病気ではないことに、いっそうやりきれなさを感じる。
このまま黙って衰えてゆくより、未来へつなげる何か、とりあえず「医療費助成の請願」をやって行きたいと考えている。