★さちの夢空間

さちの身辺雑記。
ときどき情報の交換も。

『薬害C型肝炎とわたし』

2008-07-27 17:53:53 | 暮らし
あるネットワークに関わって8年。
ときどき原稿を書いている。
今日のブログは、最新の通信に書いた記事を載せることにした。


「薬害C型肝炎」とわたし

今から17年前(1992年)、50歳検診で肝機能の異常が見つかった。
数値が3桁、昨年までまったく異常がなかったのになぜ? 
まさに晴天の霹靂だった。異常値が6ヶ月続いたところでC型ウイルスによる慢性肝炎(以下「C肝」)と診断された。とりあえず週に2回「強力ネオミノファーゲン」という注射を続けることになった。週2回の静脈注射は楽なようだが、血管が硬くなってくると結構つらい。感染症などで薬を飲んだりするとすぐ数値が上がる。すると注射の回数が増える。なぜこんな病気になったのだろう?

1996年にHIV訴訟の和解が成立したが、被害者の9割以上がHCV(C型肝炎ウイルス)にも感染していることが分かり、その中でフィブリノゲン製剤が注目され始めた。
この製剤は1964年に製造が始まっており、手術やお産で出血が止まらない人にもかなり使われていた。これだったのだ!

わたしは1969年に出産し、その際、弛緩性出血を起し、止血のために長時間点滴をしていた。主治医や知り合いの医師にそのことを話すと、「あなたのC肝は99%フィブリノゲンが原因でしょう」といわれた。
しかし、出産した病院はフィブリノゲン製剤納入医療機関に載っていたものの、医師は亡くなり廃院となっていた。
このフィブリノゲン製剤は、アメリカでは効力に疑義があるということで、
1977年にFDA(食品医薬品局)が承認を取り消している。
にもかかわらず、日本ではその後20年にわたって使われ続けてきた。
この違いはどこから来るのだろう。日本政府ならびに製薬会社の経済優先、人命軽視にほかならない。

ある日すっかり成長した息子がぽつんと言った。「お母さんはぼくを生まなければこんな病気にならないで済んだんだね」。わたしは一瞬ことばを失った。「ぼくは肝移植も考えている。必要なときはいつでも言ってね」。この病気は、こんなかたちで息子の心まで苦しめていたのだ。
 
2002年、薬害肝炎訴訟が提訴され、原告の方たちが病身をおして裁判を闘ってこられた。6年に及ぶ闘いののち、今年1月「薬害肝炎被害救済法」が成立し、新聞やテレビに「全員救済!」の文字が躍った。わたしはC肝であることをカムアウトしていたので、友人たちから「よかったね。おめでとう!」と声をかけられたり、電話がかかったりした。
その度に「法律の対象は裁判を闘ってきた原告さんで、わたしは証拠がなくて提訴できなかった」というと「えっそうなの。あの全員救済は肝炎の患者さん全部だと思った」という人が多かった。

血液製剤や、注射器の回し打ちなどで肝炎患者は350万人ともいわれている。こんな事態を招いた国の医療行政や製薬会社の責任を糾していかなければならない。
そして、二度と薬害による被害者が出ないよう、ことばだけではなく、実態の伴った「薬害の根絶」を目指していかなければならない。
わたしはさまざまな代替治療が功を奏しているのか、今日まで生きてこられた。しかし、これからも血液検査、エコー、年に1~2回のMRI、CT、胃カメラ。そして日常的に注射、投薬は欠かせない。今までどれだけの医療費をつぎ込んできたことか。怖くて計算できない。
いまいちばん不安なのは、年金暮らしの中で医療費がいつまで捻出できるかだ。確かに、4月1日からインターフェロン治療に助成金が支給されるようにはなった。しかし、この治療は副作用がひどく、効き目もかなり個体差があり、わたしのように治療できない段階の人も多い。
いま、裁判に続いて原告・弁護団が中心になって、医療費の助成を求める運動が展開されている。また、今国会で「肝炎対策基本法案」が継続審議になった。秋の臨時国会では患者サイドに立った改善策を盛り込んだ法律として、ぜひ可決成立させて欲しい。
いのちには限りがあるのだから。(『む・しの音通信66号』)



自己の過失でかかった病気ではないことに、いっそうやりきれなさを感じる。
このまま黙って衰えてゆくより、未来へつなげる何か、とりあえず「医療費助成の請願」をやって行きたいと考えている。






百日紅と高層マンション

2008-07-26 13:42:46 | 暮らし

みごとなさるすべりです。
花の色の濃さに圧倒されます。

その隣には白の百日紅。
こちらの花はまだちらほらといったところです。
ここはわたしの散歩コースです。


実はこの広大なお屋敷の跡に超高層マンションが(182戸)
建設される計画が持ち上がり、周りの住民の方たちが
反対運動をしています。





このマンションは23階建て、高さがなんと80.72メートルも
あります。建設されれば岐阜市で2番目に高い建物となります。

周辺は2~3階建ての低層住宅が多く、児童公園や天満宮
そして旧中山道が通っています。
道は細くほとんどが一方通行に規制されています。
マンションは中山道沿いに建つことになります。



名古屋のベッドタウンと化しつつある岐阜市です。
静かで、しかもJR岐阜駅まで徒歩5分と絶好の住環境。
大手商社がこの立地を見逃すはずはありません。

でも、なんで風致地区ともいえるこの場所に高層マンションなのか。
直接影響を受けない住民でも反対したくなります。
一度壊された景観は、元に戻すのが難しいからです。

反対署名は8000人を超えたそうです。
でも、運動の盛り上がりはいまひとつの感があります。
わたしも何かしなければと考えています。





天満敦子・椎名雄一郎デュオリサイタル

2008-07-23 10:18:28 | 趣味
サラマンカホール(岐阜市)の4月から10月の通し券を買っておいた。
すでに錦織健、ジョージ・ウインストンの演奏会は終わり
今日は天満敦子のヴァイオリンと椎名雄一郎のパイプオルガンのデュオ。

ヴァイオリンとピアノのデュオは何度も聴いたが
パイプオルガンというのは初めてだ。



午後3時からの演奏会なので駐車場は
まさに灼熱地獄。
ほうほうの態で会場へ逃げ込む。

ヴァイオリンは舞台の上。パイプオルガンはそこからかなり高い位置。
お互いに合わせ鏡で位置を確認しあい、息を合わせる。
なかなか大変な様子。

まずパイプオルガンの『トッカータとフーガ』が始まった。
バッハの超ポピュラーなこの曲は小学校のときからよく聴いていた。

むかし、映画「海底2万マイル」でジェイムス・メイスン扮するネモ艦長が
潜水艦「ノーチラス号」の中で弾いていたのが印象に残っている。
(メチャ古い話です)
なにしろ1954年製作の映画だから。

天満さんのヴァイオリンは、太く力強くしかも心の奥深く
染み入るような音。
270年前のストラデヴァリウスだとか。

曲目はアルビノーニのアダージョ、アメイジンググレイス、
ヘンデルのオンブラマイフ、カッチーニのアヴェマリアなど
ポピュラーなものばかり。

冷房が程よく効いたホール、美しく切ないヴァイオリンの音。
ひとの息づかいに似たパイプオルガン。
その上、朝から激しい頭痛で鎮痛剤を服用していたので
気持ちよーく眠ってしまった。

後半はヴァイオリンのソロ。
バッハのシャコンヌが演奏されるので
今度はしっかり目覚めていた。

彼女の紹介で日本で演奏されるようになった
ポルムベスクの「望郷のバラード」は最後の演奏だった。

この曲にまつわるドキュメンタリー・ドラマがまたまた再放送される


天満さんはその天衣無縫なトークでも人気のある方。
「この暑さの中、よくぞお越しくださいました」には
会場大爆笑。

拍手が鳴り止まずアンコールは2曲。
演奏会の終わるころには頭痛もすっかり消えていた。

もう一度ヴァイオリンとパイプオルガンのアンサンブルが聴きたくて
CD『祈り』を買ってしまった。


家人いわく「心の落ち着く音色だね」。
買ってよかった。




どうしてこんなに暑いのか!

2008-07-19 17:30:44 | 暮らし
言ってもムダだと思いながら、暑い暑いを連発する私。
しかも梅雨はまだ明けていない。
梅雨明けならこの暑さも許してあげられる。
梅干も干せるし、虫干しやカーテンなども洗えるのに。

と書くと、まるで主婦の鑑のようだけど、実態は???

と書いてアップしないでいるうちに、きのう梅雨明け。

もう少し若いころは夏の海の解放感が大好きで
海水浴が楽しみだった。

今はひたすら日差しを避けて、早朝か、日が落ちてから
うごめいて(!)いる。

四季の変化のある日本は豊かな文化を育んできたが
この暑さの中では、情けないことにそれを味わうゆとりがない。







ご近所のおおでまり(Japanese Snowball)。スイカズラ科。
あじさいだと思っていました。
あじさいはユキノシタ科だそうです。

ぐずなわたしと同じ。
季節はずれの花盛り。