★さちの夢空間

さちの身辺雑記。
ときどき情報の交換も。

○○歳の誕生祝い

2005-08-30 14:06:54 | 趣味


8月28日は私の誕生日。そのお祝いのお食事会を
夫と東京から帰省した息子が,今日開いてくれた。
飛び切り新鮮な魚を食べさせてくれる「きし野」という
お店をリクエストした。


まず、鮑と海老と小松菜の煮びたし   お造りは鮑、トロ、ぼたん海老




いわしの一夜干 油がのっておいしい        すっぽんのスープ葛じたて


食事中に「今日郡上で釣ってきた」と鮎を持ってきた人がいた。
さっそく焼いてもらう。もう17センチぐらいに大きくなっていた。






鯵のおすし                   松茸の土瓶むし 秋ですねー。





ふとめの天然モズクとろろがけ      わたりがにの酢の物          




さいごにお店のサービスで、稲葉山の麹で作ったというにごり酒がでた。
酸味があり、どぶろくにしてはさっぱりしてて梨のジュースのような味だった。

   


久々に美味しいお料理をたっぷり食べてしあわせでした。
お二人さん、ありがとう。



車山の花たち

2005-08-28 11:02:50 | 裁判
ときどき

夏の高原は花の宝庫




シモツケ




ツルギハナウド?            ウ ド



アカツメグサ                     シオンのなかま



分かりません。



マルバハギ                         シャジクソウ


山歩きの翌日は9時から11時まで練習だった。
昼食は白樺湖のレストラン「モンクレール」
http://www.lcv.ne.jp/~moncler/
洋風の家庭料理といった味で美味しかった。
とうとう雨が降り出したが、後はバスに乗って
ひたすら岐阜へ。お天気に恵まれた、
とても楽しい合宿だった。



今日8月28日は私の誕生日。お祝いをするといって、息子が東京から帰ってきた。
なにをご馳走してくれるのかな?





車山の合宿-シモツケソウ-

2005-08-27 12:50:01 | 裁判
ときどき


19日の山歩きで撮った写真


シモツケソウ           シラヤマギク?            


しょっちゅう黒い雲がながれてくるが、さーと消えてくれる。     ススキ



ノハラアザミ



名前が分からない。
<


ヤナギラン





道幅が広くなった。眼下に白樺湖が見えた。



コオニユリ



アキノキリンソウ

高原を歩く-ウスユキソウ-

2005-08-26 12:08:35 | 活動


練習風景
 女性は前のほうに座るので全体が写せない。




8月20日。今日も朝からいいお天気。
下界では雨が降り続いているという。
友人のKさんが「晴れ女」(本人の弁)なので
合宿は毎年雨が降ったことがない。
6時におきて、冷気漂う草原を散歩。
8時の朝食を美味しく食べ、
9時から12時まで練習。
そのあとが、合宿1番のお楽しみ、『自由時間』。
さて今日はどこへ行こうか。
グループが3つに分かれた。
①車山健脚コース 全工程を歩く。
②車山初心者コース 頂上までロープウエイで往復
③白樺湖コース ゆりの群生を見て湖でボートに乗る

私は迷わず②を選ぶ


ロープウエイで車山山頂へ  おもわず「さむーい」!




おなじみマツムシソウ
マツムシはむかしスズムシを指した
スズムシのなくころ咲くからとも
花のあとの頭花を巡礼の松虫鉦にたとえたともいわれる。







ウスユキソウ エーデルワイスの仲間       カワラナデシコ          





≪山小屋・コロボックル≫
山頂からここまで(30分)歩いたら
タクシーかバスで山を下りると聞いていたので
写真を撮りながら歩いた。
高原牛乳がとても美味しかった。

ところが・・・。




はじめからバスに乗る予定はなく、ロープウエイの乗り口まで歩くことになっていたそうだ。
「エーッ!知らなかったのはわたしだけ?」
みな、ニヤニヤしていた。
エーままよ。こうなったら歩いちゃいましょ。
写真をいっぱい撮りながら一番あとからくっついていった。
みな親切に待っていてくれた。ありがとう。




フウロソウ                         イワタバコ?


ヤマハハコ                     ママコナ



合計3時間ちかく歩いた。夜の練習は苦行だった。


車山の合宿

2005-08-25 21:45:13 | 


8月19日、8時30分、バスで車山へ。
混声合唱団の男女35人が参加。
高校1年生から70歳まで、メチャ幅の広い団体だ。
心配していたお天気もバッチリ晴れ。
お昼は諏訪でおそばの昼食。
1時30分車山のペンションに到着。
さわやかー。汗がぜんぜんでない。

ペンション「リゾート・イン・ラルゴ」



さっそく周りを散策。 コスモスがお出迎え。




あったー!るなさんと約束した吾亦紅
風が強くてうまく写せない。




むらさきのグラジオラス。初めて見る色だ。



グラジオラスの横にはルドヴェキアが一面に咲いていた。




このあと3時から6時まで練習。
スープ、アマダイのムニエル、ステーキ
ワインゼリー、コーヒーの夕食を
はさんで7時から10時まで練習。
全曲バッハ。
モーツアルトやロマン派の曲も歌いたいのに。
といっても私はずぶの素人。
ほとんどが音大出身か現役生なので
わたしは合唱団のお荷物です。

10時からは恒例のパーティー。
わたしは、体調を考えてただ一人パス。
若い人は朝4時まで飲んでいたそうだ。
わたしも10年前はそうだったなー。




おしらせ

2005-08-18 21:24:44 | 暮らし
ときどき


おくらのはなと実



コキア(SummerCypress) あかざ科
秋になると紅葉してピンクになる
実は「とんぶり」 プチプチした食感が美味しい





明日からコーラスの合宿で車山に出かけるので、ブログをしばらくお休みします」。
山の写真をいっぱい撮ってこようと思っています。

敗戦そして引き揚げ その3

2005-08-17 21:09:56 | 暮らし


妹の死は母にも、わたしにも衝撃でした。
わたしは5歳になっていましたから、妹の死の責任を
5歳なりの感じ方で受け止めていたようです。
母は、日に日に暗くなって行く私を、
「M子ちゃんはお父さんのところへ呼ばれたのよ。
お父さんは一人じゃさびしいってM子ちゃんを呼んだのよ。
お母さんが小さい子を二人も抱えて生きていくのは大変だからって、
こちらへおいでって呼んだのよ」と、自分自身をも
納得させるかのように、静かに慰めました。

どんなショックな事件があっても、とにかく
生きてゆかなければなりません。
そのあとわたしたちは、市営の母子寮に移り住みました。
全員、夫を戦争で無くした女性とその子どもたちでした。
そこで母は借り受けた畑に、さつまいも、トマト、きゅうり、
とうもろこしコウセキ瓜などを栽培し、一部、自給自足の生活をしました。
まったくの素人にしては出来がよく、よくおすそわけしたものでした。
トマトと黄石瓜は、未だにわたしの大好物です。

そこでわたしは6歳を迎え、小学校に入学しました。
小学校は母子寮のまん前にあり、通学がとても楽でした。
同じ母子寮のK子ちゃんとはいつも一緒に通い、成人して
彼女が静岡へ越すまではずっと親しくしていました。

そのあと母はさまざまな苦労と努力を重ね、
運よく事業に成功し、わたしはなに不自由なく
大きくなることができました。

☆10年前青島を訪れました。
昔の住所を尋ねたところ、生まれた家がそのまま残っていました。
そこでは、中国の方たちが5家族暮らしていました。
かつてドイツ租界だった雰囲気が、そのまま残っています。








わたしは長ずるにつれて、「わたしはなぜ中国で生まれたのだろう?」
と思うようになりました。歴史を学ぶうちに、それが侵略戦争の結果だったこと、
だからあの時代に、よその国で七五三のお祝いをしていたんだ、
たくさんの使用人に囲まれて、優雅な暮らしをしていたんだということに
思い至りました。
わたしは父を戦争で殺され、その結果母が大変な苦労をしたと
被害者としての側面でしか、日中戦争をとらえていませんでした。
しかし、歴史の事実は違いました。わたしたちは加害者の一員だったのです。
やはり歴史は、あったそのままの事実を知り、認めた上で、平和の道を
考えていかなくてはいけないと思います。
事実の歪曲から生まれるのは憎悪だけです。

母も31年前に過労がもとで肝臓を患い、父と妹の下へ逝きました。
ほんとに苦労ばかりの母でしたが、なんの後ろ盾もない私たち親子が
ここまで生きてこられたのは、やはり良い出会いが
たくさんあったからだと思うのです。

先の戦争の時代を生きてきた人は、誰でも、大なり小なり過酷な体験を
潜り抜けてこられたことと思います。母と私の体験はそのうちの、ほんの
一つに過ぎません。
わたしがこの、あまり触れたくない体験をブログに載せようと思ったのは
不戦を誓った世界に類を見ない優れた憲法をもっているこの国が、イラクに
軍隊を派兵したこと、その憲法を戦争をしやすいものに変えようという動きが
活発になってきたことに、黙っていられなくなったからです。

このブログを書いていられるのも、平和だからこそと、しみじみ思います。

敗戦そして引き揚げ その2

2005-08-16 18:25:58 | 暮らし



岡山での滞在も2週間ともなると、わたしはいとこたちとも
仲良くなり、ことばもすっかり岡山弁になっていたといいます。
岡山の言葉は語尾に「~じゃけん」と付きます。
この「けん」のおんが、私にはとても心地よく思えたのでした。

平穏な毎日がこのまま続くのかと思っていたら、突然私たちの
支えであった義姉が亡くなってしまいました。
それも5人の子どもを道連れに心中するという、なんとも痛ましい形で。
その義姉も夫は召集され、生死がわからないままでした。
私たちは支えを失って、そこに居づらくなりました。
義姉の供養もそこそこに、今度は母の実の姉が住む
岐阜に行くことになりました。

叔母もまた、将校だった夫はシベリアに抑留され
大学生の一人息子と二人暮らしでした。
叔母の住んでいた将校の宿舎は、5部屋あり中庭まで付いた立派なものでした。
ある日、三人でお風呂に入っているとき妹が粗相をしました。
そのことを叔母はたいそう嫌がり、
「私は他家へ嫁いだ身だ。主人もいつ帰ってくるか分からないし」と
暗に出て行って欲しいと言うそぶりでした。
岐阜というまったく見知らぬ土地へ来た私たちは、
とりあえず引揚者を収容している施設に入りました。
それは紡績工場の寮だったり、軍隊の宿舎だったり
大きな空間に、何十所帯も一緒に暮らすものでした。
そして運命の11月14日が訪れます。

それは七五三の前日でした。食べるものにも事欠く時代でしたが、
チンタオから持って帰ってきた晴れ着があったので、妹にそれを着せて
お祝いをしようということになりました。
妹は着るのをいやがり、キヤッ、キヤッと笑いながら逃げ回っていました。
サツマイモの昼食後、私と妹は連隊の兵隊さんと遊んでいました。
その日は、むしめがねで太陽の光を集めて紙を燃す遊びでした。
私は夢中になって兵隊さんの手元を見つめていました。

どれくらいたったのでしょうか、わたしはふと後ろを振り返りました。
いつもいるはずの妹が見えません。
あれ?不安になった私は妹を探しました。
どうしてもみつからないので母に話すと、同じ寮の引揚者の人たちも
手分けして探し始めてくれました。
妹はどこにもいません。1時間ほど過ぎたとき母は、
「ここじゃないかしら?」と防火用水を指差しました。
それは防空壕に水を張ったものでかなりの深さでした。

母は竹ざおを持ってきて、必死で用水の水をかき回しました。
すると、ロンパスのたすきにひっかかった妹が浮いてきました。
すぐ病院へつれて行き、人工呼吸をしてもらいました。
まだ生暖かかったのですが、栄養状態も悪かったため体力が無く、
助かりませんでした。下駄を履いていたら、あるいはそれが浮いてきて、
早く見つけられたかもしれません。
しかし、妹はあいにく革靴をはいていました。
それも甲のところをバンドで止めるスタイルです。
この赤い靴は彼女のお気に入りだったので、引き上げのとき使った
トランクとともにまだ保存してあります。


 ☆私の三歳のときの七五三 青島神社にて



妹もこの着物を着るはずだった。


敗戦そして引き揚げ その1

2005-08-15 11:46:50 | 暮らし
ときどき

1945年8月15日わたしは母と妹と中国の青島(チンタオ)に住んでいました。
わたしは4歳妹は1歳。父はその年の1月、3回目の召集で戦死していました。

父は士官の道を選ぶこともできたそうですが、
あえて赤紙で召集されていったということでした。
ある日斥候に出た父は、銃弾を28弾浴びて戦死したそうです。
戦後も10年以上たってから、同じ部隊にいたという人から、
詳細な手紙が届きそのことを知りました。父はとても勇敢な人だったと
慰めの言葉を添えて。わたしはそのとき思いました。
勇敢でなくていい、とにかく生きていて欲しかったと。

チンタオは海辺の都市ですから、その年の12月
引き揚げることになりました。
敗戦国民ですから、引き揚げ船は客船ではありません。
しかも乗船のとき凍てついたタラップを上らなければなりません。
時々滑り落ちる小さな子どもがいたそうですが、誰も助けてくれません。
母は一歳の妹を胸にくくりつけ、背中にはリュックを背負い、
2個のトランクで腰ひもでつなげた4歳のわたしを挟むようにして
タラップを上り貨物船の船底に身を置きました。
航海の間、母は何度も3人で海へ飛び込もうと思ったそうです。

一週間後船は鹿児島に着きました。
12月の凍える寒さに妹は下痢をし続け、引き揚げてからも
ずっと体調が悪かったようです。
私たちは引き揚げ列車に乗りとりあえず父の郷里の岡山に向かいました。
列車の混み方は尋常なものではなく、わたしは乗り合わせた
復員兵のおじさんに抱っこされて、窓から用を足したのを
かすかに記憶しています。
岡山の親戚は、やっとの思いで引き揚げてきたわたしたちを、
やっかい者が転がり込んできたという表情で迎えました。
確かにまったく物の無い時代でしたが、父の実家は代々の和菓子屋で、
軍の御用商人も勤めていました。そのおかげか、
そのころ貴重品だった砂糖などもふんだんにあり、
親子三人の食い扶持ぐらいは十分まかなえる状態でした。
途方にくれているわたしたちを、父の姉にあたる人が
「よく帰ってきたね。しばらくここにいればいいよ」と声をかけてくれ、
私たちは2ヶ月ほど岡山に滞在することになったのです。
あの事件がおきるまでは。

引き揚げのとき許可された持ち物の一覧表  年齢は数え年
      <いもうと>




       <わたし>






<母>
母は幼いわたしたちに出きるだけの物を持ち帰ろうとしたため、
自分のものは着物一そろえのみ




あといくばくかの現金 それが引き揚げのときの全財産だった。






京都拉麺小路

2005-08-13 21:03:27 | 趣味
ときどき土砂降り

今日は月に一回の京都行き。東洋医学の病院での
定期検診と投薬。10時半に京都に着きJRバス
「高雄、栂ノ尾」行きに乗る。

西本願寺から四条大宮




二条から出世稲荷神社





大将軍(京都らしい駅名)を通って 
前方にかすかに大文字が見える。




妙心寺を通り、世界遺産の仁和寺(右手)を見ればあと5、6分で高雄病院


(写真はすべてバスの中から撮ったので、出来が悪いですがご容赦を)


その間50分あまり。腰が痛くなってしまう。
今日の病院は割りにすいていて、道路の渋滞も無く
1時半には京都駅へ戻れた。さっそく京都拉麺小路へ。
http://www.kyoto-ramen-koji.com/towa.html

先回は京都の宝屋を食べたので(ちょっとしょっぱかった)
今日は,「煮干の風味のあっさり味」と書いてあったので、
尾道ラーメンの柿岡屋にした。味卵の付いた柿岡
ラーメンを注文すると、なんと小さなコップだが生ビールが
サービスで付いてきた。ラーメンにビール???だが
のどが渇いていたので飲んでしまった。
ラーメンは好みの細麺だが、スープの味が薄かった。
帰りの新幹線は爆睡状態。
ハァー疲れました。




ガールフレンド

2005-08-10 17:21:47 | 趣味


今朝は我が家の愛犬にとってとてもうれしいことがあった。
大好きなルルちゃんにひさびさに会えたのだ。
うちの子はオス犬を見ると
ぜんぶ敵だとばかり吼えまくる。
特に自分より大きな犬には容赦をしない。
いつだったか、自分の3倍はある真っ黒なラブラドルに
挑みかかり、飼い主が思わず引き綱を放り出してしまった。
うちの子は足を噛まれ骨が見えてしまい、お互いに謝りあいながら
ほうほうの体で帰宅した。

メスならいいかというと、吼えはしないが
お気に入りにしか挨拶しない。なんともわがままで、お友達が
できないのが飼い主の悩みだ。


「オッ、ルルちゃん!」      後ろへ回ってヒンシュクをかう。     




「ひさしぶりだねー」                   「・・・・・・・・・・・・・・・」




「ようやくツー・ショットになれたね」








けさ会った花、 ホテイアオイ            キバナコスモス



あいさつ

2005-08-09 22:08:43 | 趣味


夏バテがひどく三日ばかり寝たリ起きたりしていた。
横になるとすぐ眠ってしまう。まるで嗜眠性脳炎みたい。
身体もこわばって来た。たいへん、寝たきりになってしまう。

で、今朝はがんばって5時に起きわんこと散歩に。
公園はすでに年配の女性(わたしもそうだが)が
あちこちで話しこんでいる。皆さん元気だなー。

朝はいい。知らない同士も「おはようございまーす」と
あいさつできる。おおむね女性のほうが気さくだ。
男性は照れ屋さんが多いのだろう。

朝日に輝くえのころぐさ 心を打つ美しさだ  楚々としながら生命力の強いハゼラン




ひる咲き月見草(エノテラ) アメリカ中南部原産



おなじみヘクソカズラ 別名馬食わず、やいとばな いくら悪臭があるからといって、
こんなにかわいらしい花なのにあまりにかわいそうな名前 
もう一つこんないい名前があるのに
これからはこれで呼ぶことにしよう 『早乙女花』(さおとめばな)






これもおなじみ、どこの垣根でもでも見かける花だ。
花園衝羽空木(ハナゾノツクバネウツギ) アベリアともいう





早起きをするといろんな表情の植物が見られる。
やっぱり「三文のとく」ですね。

加納城址

2005-08-06 15:22:14 | 趣味
ときどき

今日はいつもより早く散歩に出たので、ちょっと
遠くまで行こうと、城跡を訪ねた。
そこは加納城のあと。



加納城は1445年(文安2)斉藤利秋が建てた平城で
しばらく廃城になっていた。
それを、岐阜城が落城した翌年の1601年(慶長6)
徳川家康が岐阜城の天守閣や櫓を移築し、娘婿、奥平信昌
を住まわせ10万石を与え加納城としたものだ。

今では本丸と二の丸の石垣をわずかに残すのみ。



     本丸の石垣                  お城には松が良く似合う しっかり実をつけている



クローバーの間に無数に咲いていた直径5ミリほどの可憐な花




石垣の中は市民公園になっているが、夏でも7時半開門となって
いて、中に入ることはできなかった。
でも、石垣の周り(外堀だろう)も、うまごやし(クローバー)が
いっぱい生えてて、ふわふわと気持ちがいい。
ここにわんこを連れてくる人たちはマナーが良いとみえて
うんちを一つも見なかった。こんなことは初めてだ。
緑がいっぱいあったので、吸い込む空気まで清々しく感じられた。
これも遠出の収穫だった。

クレマチス

2005-08-04 21:38:57 | 趣味


今日は所用があって遠出した。
アスファルトはギンギンに熱せられて、昼食のため
駐車をして車に戻ると、車外温度計(私の車は車内ではなく
車外温度計が付いている)は39度。
走っている道路の温度表示もほとんど37度。
しかし天気予報の今日の最高気温は35・4度。
ほんとかな?体感温度は39度だったなというかんじ。
おかげでビールは美味しいけど、ご飯が食べられない。
早く涼しくなってくれないと、ミイラになっちゃうよ。
といってもあと一月はむりですね。

ところできょうのタイトルのクレマチス。
実はこの頃さっぱりお目にかからない。
ひところ、かなりのお宅でうすむらさきやピンクの
クレマチスが涼しげに咲いていた。最近はその代わりのように
マンデビラが全盛だ。鉢植えが多いが、朝顔のように
網を張ってつるを這わせてあるのを今日見かけた。


マンデビラ 夾竹桃科  ボリビア原産






我が家の花壇

2005-08-02 21:10:06 | 趣味


我が家の道路に面したところに小さな花壇がある。
出窓の下なので3分の1ほど雨水がかからない。
その部分は土が乾くと、猫ちゃんがこれ幸いと
トイレにしてしまう。だから年中何かを植えている。
今年も、バーゲンで買ったペチュニア、コリウス、ニチニチソウ
ベゴニアなど思いつくままに植えていたら、支離滅裂な
花壇になってしまった。体調が悪くて、計画的に苗をそろえ
られなかった。例年はもう少し統制が取れているのだが。

このニチニチソウは去年の種がこぼれたもの





といった状態です。

おとといアップしたがまの穂ですが、今日散歩で立ち寄ったら
半分に減っていました。誰かが抜いていったのでしょう。
みなで楽しむための公園なのに、心ない人がいて悲しくなって
しまいました。