★さちの夢空間

さちの身辺雑記。
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敗戦そして引き揚げ その1

2005-08-15 11:46:50 | 暮らし
ときどき

1945年8月15日わたしは母と妹と中国の青島(チンタオ)に住んでいました。
わたしは4歳妹は1歳。父はその年の1月、3回目の召集で戦死していました。

父は士官の道を選ぶこともできたそうですが、
あえて赤紙で召集されていったということでした。
ある日斥候に出た父は、銃弾を28弾浴びて戦死したそうです。
戦後も10年以上たってから、同じ部隊にいたという人から、
詳細な手紙が届きそのことを知りました。父はとても勇敢な人だったと
慰めの言葉を添えて。わたしはそのとき思いました。
勇敢でなくていい、とにかく生きていて欲しかったと。

チンタオは海辺の都市ですから、その年の12月
引き揚げることになりました。
敗戦国民ですから、引き揚げ船は客船ではありません。
しかも乗船のとき凍てついたタラップを上らなければなりません。
時々滑り落ちる小さな子どもがいたそうですが、誰も助けてくれません。
母は一歳の妹を胸にくくりつけ、背中にはリュックを背負い、
2個のトランクで腰ひもでつなげた4歳のわたしを挟むようにして
タラップを上り貨物船の船底に身を置きました。
航海の間、母は何度も3人で海へ飛び込もうと思ったそうです。

一週間後船は鹿児島に着きました。
12月の凍える寒さに妹は下痢をし続け、引き揚げてからも
ずっと体調が悪かったようです。
私たちは引き揚げ列車に乗りとりあえず父の郷里の岡山に向かいました。
列車の混み方は尋常なものではなく、わたしは乗り合わせた
復員兵のおじさんに抱っこされて、窓から用を足したのを
かすかに記憶しています。
岡山の親戚は、やっとの思いで引き揚げてきたわたしたちを、
やっかい者が転がり込んできたという表情で迎えました。
確かにまったく物の無い時代でしたが、父の実家は代々の和菓子屋で、
軍の御用商人も勤めていました。そのおかげか、
そのころ貴重品だった砂糖などもふんだんにあり、
親子三人の食い扶持ぐらいは十分まかなえる状態でした。
途方にくれているわたしたちを、父の姉にあたる人が
「よく帰ってきたね。しばらくここにいればいいよ」と声をかけてくれ、
私たちは2ヶ月ほど岡山に滞在することになったのです。
あの事件がおきるまでは。

引き揚げのとき許可された持ち物の一覧表  年齢は数え年
      <いもうと>




       <わたし>






<母>
母は幼いわたしたちに出きるだけの物を持ち帰ろうとしたため、
自分のものは着物一そろえのみ




あといくばくかの現金 それが引き揚げのときの全財産だった。






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4 コメント

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。。。。 (雪ダル)
2005-08-16 02:56:36
引き上げ直前なんて、きっと、栄養も不足なさっていらしたでしょう。

それなのに、これだけの量(全財産としては、少なすぎますが)と小さな子を二人連れて……。

骨も曲がりそうなほど重かったことでしょうね。。。



この先があるのに、1を読ませていただいただけで感想を書くのは失礼かと思いましたが、胸がいっぱいになって、涙がでてきました。

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Unknown (さち)
2005-08-16 18:18:02
共感していただいてうれしいです。

母も私と同じやせた人だったので、大変だったと思います。でも、当時はみなが必死に生きていましたし、まだ若かったのと、「子どものために」という思いが、母を強くしたのだと思います。
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青島生まれです (福ちゃん)
2009-10-15 10:54:18
調度同じ歳のご兄弟です。ただ姉と44年生まれの弟ですが。
先日青島の生家訪問をきっかけに、引き揚げ時の事を調べています。父親から45年12月鹿児島に着いたと聞いていますが、加治木港でしょうか?
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Unknown (孫基亮)
2015-06-26 23:05:57
私は青島の人です。1940年生まれ。青島からの往事を見ることは興味あるのです。
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