★さちの夢空間

さちの身辺雑記。
ときどき情報の交換も。

ドキュメンタリー「・・・そして五人が戦死した~昭和11年夏・甲子園の勝利者たち」

2008-08-20 11:24:15 | 暮らし

勤めていた会社の先輩から夫とわたし宛にこんなハガキが届いた。
かつて在職中に、ご自分が製作され芸術祭・優秀賞を
とられたドキュメンタリーが再放送されるという。

内容は、昭和11年夏の甲子園で優勝した
県立岐阜商業のメンバーを追ったドキュメンタリー。
その後を吉岡忍が旅をするというもの。

先輩とは今もときどき音楽会やお芝居でお会いする。
ジーンズの良く似合う若々しい先輩である。
 
お時間のある方、興味のある方は、ぜひご覧ください。

 テレビドキュメンタリー
「・・・そして五人が戦死した~昭和11年夏・甲子園の勝利者たち~」

      東海テレビ 8月24日(日)午後4時~  放送

このドキュメンタリーは、東海テレビに在職中に制作・放送したもので 
昭和57年度の文化庁芸術祭の優秀賞を受賞した作品です。
東海テレビの開局50周年に当たり、再放送されることになりました。      バットが銃に、ボールが手榴弾に代わることがないように、
甲子園大会の入場行進が、再び還ることがなかった学徒たちの
神宮外苑の出陣壮行式に代わることがないようにー
そんな制作者の思いをお汲み取り頂ければ幸いです。

こんなことになりました。お目に止まれば嬉しい限りです。
                           H・Y


わたしはちょうどコーラスの合宿中。
DVDに録っておこう。






もう63年

2008-08-15 11:00:57 | 暮らし
あの敗戦からもう63年も経ったのか。
父の戦死、引き揚げ、母の苦労、闇市の活気、傷痍軍人、進駐軍、
ガムやチョコをくれた若いMP、あのころを思うとこんなキイワードが脈絡もなく頭を駆け巡る。
そんな今日、新聞でいちばん心に残った記事は中日新聞の社説だった。


人間中心主義に帰れ
-終戦記念日に考えるー

歴史は自らは語りません。歴史から学ぼうとする者に語りかけるようです。六十三回目の終戦記念日は辛(つら)い歴史と向き合うべき日でもあります。
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三百万人を超える戦死者と焦土を残して終わった昭和日本の破局は一九三一(昭和六)年の満州事変に始まったとされます。それまで軍縮と国際協調路線に賛同し、軍部の横暴を批判する良識を持っていた新聞を中心とした言論界も中国・柳条湖での南満州鉄道爆破で一変しました。

資本主義の暴走と破局
 
爆破が日本軍部の謀略であることは、現地に特派された記者がすぐに気づくほど軍の関与と宣伝が歴然としていましたが、「日本の正当防衛」「権益擁護は厳粛」で走りだした新聞は論調を変えることはありませんでした。
言論も世論も事実に目をつぶり上海事変、日中戦争、太平洋戦争と進むにつれて神がかり。破滅に至る十五年戦争の熱狂はどこから来たのでしょうか。
略奪や侵略が当たり前だった帝国主義の時代だったこともあるでしょう。欧米列強への恐怖と不安と長年の鬱積が一気に噴出したとの分析もあります。軍のマスコミ工作もあったでしょうが、この時代に垂れこめていたのは世界大恐慌の暗雲でした。
 一九二九年十月のウォール街の株暴落に端を発した大恐慌は、ドイツでナチス、イタリアでファシズムの政権を生み、日本では満州国建国の夢となりました。国家改造をめざした二・二六事件の青年将校決起には農山村の疲弊と貧困があったとされ、満州を経済圏にした日本は欧米に先駆けて国内総生産を恐慌前水準に戻します。第二次大戦のもう一つの側面が資本主義の暴走と破局でした。

自由とヒューマニズム
 
資本主義の暴走という点で、グローバル経済の行方が気がかりです。
最も効率の良いものが勝ち残る地球規模の経済システムは、ひと握りの勝者と多くの敗者を生み、効率追求のあまり低賃金、過激労働、雇用不安を世界に広げ、多くの国で社会保障の削減となりました。石油などの資源争奪と食料まで投機対象とする貪欲と無節操は帝国主義時代さながらです。
 米国を舞台にジャーナリスト活動をする堤未果さんのベストセラー「貧困大国アメリカ」の衝撃は、貧困ゆえに教育や就職の機会を奪われ、軍にリクルートされる高校、短大、大学生たちの詳細リポートです。
テロとの戦いの大義を問う前に、若者たちにとってイラク戦争が生活のための戦いであることが紹介されています。
 イラク戦争に参加した日本人青年が語っています。「人間らしく生きのびるための生存権を失った時、九条の精神より目の前のパンに手が伸びるのは人間として当たり前」。貧困と生活の脅えに平和の理念も吹き飛ぶ。日本のフリーター論客の「希望は戦争」がすでに現実の世界でした。
 資本主義暴走期の大正から昭和初期にかけ東洋経済新報の石橋湛山は「一切を棄つるの覚悟」や「大日本主義の幻想」「鮮人暴動に対する理解」の社説で、人間の健全さを示しました。領土と植民地の解放、民族の独立自治、自由貿易体制こそ世界の進むべき道だと説いた時代を超えた論説です。
湛山のこの自由主義とヒューマニズムこそ戦後日本の立脚点だったはずです。人間のための社会経済システムや社会保障体制が一刻も早く再構築されなければなりません。人間を雇用調整の部品や在庫調整の商品並みに扱ったのでは資本主義の敗北で、未来があるとも思えないのです。
本紙のことしの終戦記念日特集は、映画「母べえ」の原作者野上照代さんと大宅賞受賞のフリーライター城戸久枝さんの対談で、戦争体験の風化もテーマです。城戸さんの受賞作「あの戦争から遠く離れて」は、取材に十年、執筆に一年半かけた力作。残留孤児だった父親の数奇な運命を訪ね歩く旅は、自分自身の存在の軌跡をたどる旅でした。
父親が育った中国の寒村の川岸に立ったとき「父親の娘として生まれたかけがえのない人生の不思議」や「ここに存在するという奇跡的な偶然」などの感覚が頂点に達したと書かれています。

かけがえなき人生だが…
 
城戸さんの発見と感動はそのまま、われわれの一人一人が戦争と地続きの歴史のなかで、かけがえのない人生を生きていることも知らせてくれます。
一人一人が人間として大切にされなければならないのは無論ですが、あの戦争では多くの若者が日本の未来を信じることで不条理の死の慰めとしました。他人と歴史に無関心で、それすら忘れてしまったら戦後の日本が不毛になってしまいます。(2008・8・15)
 

風船かずら


敗戦忌形見のオメガつひに錆ぶ さち




また同窓会

2008-08-11 14:37:15 | 暮らし
またまた高校の学年同窓会があった。
学年同窓会は、還暦には飛騨高山で、65歳には下呂温泉で開いた。
次は古希だろうと思っていたら、亡くなる人が相次いだので
今年開こうということになった。

こういものは、縁の下の力持ちがいないとなかなか実現しない。
幸いなことに、同期生のイベント企画の社長がマメな人で
企画から運営まですべてこなしてくれる。
わたしたちクラス委員は、印刷されたはがきを郵送
回収し、できるだけたくさんの同級生に参加してもらうよう
呼びかけるだけ。

わがクラスはいつも出席率が良く、
今回も最高の15人が集まった。
もちろん若くして亡くなった人、住所不明の人も
あるが、おおむね平和裡に今までの人生を過ごした仲間が
多いのかもしれない。

恩師は7人の方がいらしてくださり総勢110人余り。
卒業以来初めて、すなわち48年ぶりに会う人もいて
でも、面影はたっぷり残っていて懐かしい話に花が咲いた。

恩師の中でも、大学卒業後最初の赴任校としていらした先生は
当時まだ22歳。われわれと余り年齢が変わらなかった。
男子クラスの面々はその化学の先生にずいぶん意地悪したらしい。

教室の入り口に黒板消しをはさんで置くとか、
高いところに黒板消しを置いておくとか(その先生は
小柄な方)、古典的なイタズラだった。
「身に覚えのある人はくれぐれもお詫びをするように」と
アナウンスすると、3人ほどのもう頭の薄くなったもと生徒が
先生を取り囲んでいた。

わたしは昔TV局で話す仕事をしていたので
何かにつけて司会が回ってくる。
「昔取った杵柄だろ?よろしくな」といとも簡単に言われるが
「40年も経つと、杵も柄も朽ち果ててるよ」といっても
なかなか聴いてもらえない。

だって司会をしてると、お料理は食べられないし、
旧友ともじっくり話せないし、気ばかり使っていなければならないんだもの。

でも、ま、この歳になってもお呼びが掛かることを
喜ぶべきかも・・・。

はがきの近況欄に、お連れ合いの代筆で
「要介護度2で出席できません」という深刻なものもあったのだから。
彼は高校時代野球部員で、甲子園めざし真っ黒になってグランドを
走り回っていたんだよね。

次の学年同窓会は2年後。
卒業50年(!)と古希を祝って開くことになった。
それまでは今のままでいられそう・・・と思う。