ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

亀戸天神鷽替え神事(蠟梅)

2018年01月24日 14時30分17秒 | 季節の花

亀戸天神では今日(24日)と明日(25日)はうそかえ神事で賑わいます。弁当工場の衛生会議を終えて天神さんに寄ってみました。

10時前でしたがすでに結構並んでしました。

神事には参加しないので、鷽の碑は撮れませんが、昨年撮ったものがありました。

鷽の碑です。

★ランドマーク亀戸天神鷽の碑:鷽替え:鷽替え(うそかえ)とは、主に菅原道真を祭神とする神社(天満宮)において行われる神事です。鷽(ウソ)が嘘(うそ)に通じることから、前年にあった災厄・凶事などを嘘とし、本年は吉となることを祈念して行われます。例年1月24日 - 25日。縁起物である木彫りの鷽(ウソ)が授与されます。「去年の悪(あ)しきはうそ(鷽)となり、まことの吉にとり(鳥)替えん」との言い伝えによります。木彫りの鷽は、高さ5 - 22cmくらい、白木の円柱に上部3分の1位が荒削りされ、頭部と腹部となり、背後は削り掛けの手法で尾羽が切り込まれています。彩色は頭が黒、胸は朱、背の羽は緑と黒となっています。

天神さんといえば神牛です。

★神牛:天神様(菅原道真公)は承和12年(845)6月25日に御誕生になりましたが子の都市が乙丑の年に当り、延喜3年(903)2月25日大宰府の配所で亡くなられたとき、道真公自らの御遺言により御遺体を牛車に乗せて牛に引かせ、牛が止まった所を御墓所と定めてそのところに神廟(現在の大宰府天満宮)が建立されたのも乙牛年のことでした。
 讃岐守(香川県)として御在任中農工に勤しむ牛の姿に深い慈愛の心を示され、又、大宰府へ西下の途中牛の鳴き声に刺客から逃れられたり、どこからともなく飛び来たった白牛に危難から救われられるなど天神様と牛とのかかわりは史実や演技に或は伝承を通して伝えられています。その底流には御生誕の年はもとより神廟にお祀りされた年も丑年に当るという御神縁があり、以来牛は天神様の神使(みつかわしめ)、天神様を守護するものとして篤く信仰されています。
社前に臥牛が祀られ、4年に一度御鳳輦渡御祭に黒牛が供奉するのもこれに因ります。
  亀戸天神社

2014年3月に太宰府天満宮を訪問したものをブログにアップしています。

境内から東京スカイツリーがよく見えます。

拝殿とスカイツリー

心字池の所から見ています。

心字池には主のようなアオサギが居ついています。

亀は冬眠中で鴨が飛んできました。

天神さんには「飛梅伝説」があるので梅の木もいっぱい植えてありますが、まだ一部しか咲いていません。

八重寒紅

★飛梅伝説平安時代の貴族・菅原道真は、平安京朝廷内での藤原時平との政争に敗れて遠く大宰府へ左遷されることとなった延喜元年(901年)、屋敷内の庭木のうち、日頃からとりわけ愛でてきた梅の木・桜の木・松の木との別れを惜しんだ。その時、梅の木に語りかけるように詠んだのが、次の歌である。

東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅花(うめのはな) 主なしとて 春を忘るな
           『拾遺和歌集』巻第十六 雑春。
東風ふかば にほひをこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ
          『宝物集』巻第二。
現代語訳:東風が吹いたら(春が来たら)芳しい花を咲かせておくれ、梅の木よ。大宰府に行ってしまった主人(私)がもう都にはいないからといって、春の到来を忘れてはならないよ。

伝説の語るところによれば、道真を慕う庭木たちのうち、桜は、主人が遠い所へ去ってしまうことを知ってからというもの、悲しみのあまり、みるみるうちに葉を落とし、ついには枯れてしまったという。しかして梅と松は、道真の後を追いたい気持ちをいよいよ強くして、空を飛んだ。ところが松は途中で力尽きて、摂津国八部郡板宿(現・兵庫県神戸市須磨区板宿町)近くの後世「飛松岡」と呼びならわされる丘に降り立ち、この地に根を下ろした(これを飛松伝説と言う)。一方、ひとり残った梅だけは、見事その日一夜のうちに主人の暮らす大宰府まで飛んでゆき、その地に降り立ったという。(ウイキペディアより)

ちなみに飛松伝説を追って須磨の板宿八幡神社まで行ってきたものがアップされています。

寒椿

蠟梅はいい香りを漂わせていました。

まだ22日の雪が残っています。

祭事のある日はあまり寄らないので、神楽は見られませんでしたが、今日は神楽・天神囃子を見ることができました。

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増上寺・旧台徳院霊廟惣門(港区芝公園)

2018年01月19日 22時47分52秒 | 社寺仏閣

東京タワーのところにある施設の衛生点検と衛生会議を2か月に一度行っています。2か月ごとに2回訪れることになります。その都度少し周辺を散策していますが、今回は大門から向かい、旧方丈門の旧台徳院霊廟惣門などを散策しました。

錦糸町から半蔵門線で清澄白河で都営大江戸線に乗り換えで大門に向かいました。増上寺の大門です。

★ランドマーク増上寺大門:「大門」は、増上寺の旧総門です。大門は、増上寺が明治維新の上地令により寺領が奪われるなどして経済的に困窮し維持できなくなったため東京府に寄付され、東京府の所有となっていた。現在の大門は昭和12年に東京市が市民の寄付を募って従来の意匠のまま高さを1.5倍の5.25mにし、コンクリート造りで改築したものです。その後何らかの理由で東京都の財産目録から抜け落ちてしまい、所有者が確認できなくなっていました。

その後東京都が調査を行い、都の所有物であり都の財産台帳から誤って抹消されたものであると認めると同時に、大門の建物としての鑑定を行い資産的価値はないものとして増上寺に無償で譲与することを決定し、2016年3月25日に東京都から増上寺に返還されました。増上寺では11月から耐震補強・外観化粧直しの改修工事を進め2017年3月に竣工しています

重要文化財  三解脱門(三門)

       大正4年(1915)3月26日指定

   慶長16年(1611年)、徳川家康公の助成により、幕府の大工頭・中井大和守の配下によって建立され、元和8年(1622)に再建されました。

  略称を三門といい、貪欲・瞋恚・愚痴の三悪(三毒)を解脱するという意味からこの名があります。

  間口・十間余(約19m)、奥行五間(約9m)、高さ七丈(約21m)の二層建てで、左右に三間(5.4m)の山廊を有している三解脱門は、東京都内最古の建築物であるだけでなく、東日本最大級の大きさを誇っています。  

  入母屋造りの建築様式で朱漆塗りの三解脱門は、増上寺が江戸の初期に造営された当時の面影を残す唯一の建造物として、国の重要文化財の指定を受けています。

  様式は、組み物などは唐様を中心とし、勾欄などに和様、天竺様が加味されている。桜内には慶長から元和年間にかけて京仏師によって作られた釈迦三尊像、十六羅漢像などが安置されている。

今回は隣の旧方状門を散策しました。

★東京都港区指定文化財 有形文化財 増上寺旧方丈門(黒門)

 増上寺の方丈(庫裡)の表門であったので方丈門とよばれ、また全体が黒漆塗であたために黒門ともよばれた。四脚門で、建造年代を明らかにする棟札などの記録は見出せないが、江戸時代初期の特徴を示す様式から17世紀後半のものと推測される。

 蟇股には唐獅子や牡丹が浮彫されていて、精巧で写実的な図柄は、近世の建築彫刻の特色を示している。長年の風蝕のため、古色をおびているが、桃山建築の豪華さのおもかげがうかがえる。

 昭和55年11月15日 東京都港区教育委員会

さらに隣に向かいました。

【台徳院霊廟惣門】

  台徳院霊廟惣門は、台徳院(2代将軍徳川秀忠)の霊廟の表門です。台徳院霊廟は、増上寺の本堂の南側に、寛永9年(1632)に造営されたもので、2代将軍徳川秀忠の霊廟です。 増上寺の徳川家霊廟の中で、最も規模が大きく、地形の起伏を利用した壮麗な建築群を誇っていました。

  しかし、昭和20年の戦災で、多くの建物が喪失して、焼失を免れたのは。惣門、勅額門、御成門、丁字門のみでした。 そのうちの惣門が現地に保存されています。 それ以外の門は狭山不動寺(埼玉県)へと移築されて現存しています。

『江戸図屏風』に描かれた台徳院霊廟

★台徳院霊廟は増上寺本堂南側の南御霊屋に東を正面として営まれた。所在地は現在の港区芝公園、ザ・プリンスパークタワー東京の敷地にあたる。霊廟の北には隣接して崇源院(秀忠夫人)霊牌所があった。台徳院霊廟建物群の配置はおおよそ次のようであった(以下、太字は旧国宝建造物)。霊廟の入口には惣門があり、これを入って参道を進むと勅額門がある。勅額門を入って右方には丁子門があり、北隣の崇源院霊牌所との間の仕切門となっていた。勅額門をくぐってさらに参道を進むと、左右に1棟ずつの水盤舎があり、正面が中門である。中門左右から発する透塀が御霊屋を囲む。御霊屋は本殿・相之間・拝殿が一体となった権現造である。本殿の右(北側)に渡廊が接続する。これらの建物群の左方(南方)の小高い場所に奥院(墓所)があり、奥院へ向かう参道の途中に御成門がある。奥院には拝殿、中門、玉垣があり、玉垣で囲まれた内側に、覆屋内に建つ宝塔(墓塔)がある。『江戸図屏風』にはこれらの建築物が位置関係も含めて正確に描写されており、また五重塔もあったことが見て取れる。(ウイキペディアより)

★木造仁王像(港区指定有形文化財)

法 量 像高 阿形243.5cm 吽形247.0cm

吽形像(左)

阿形像(右) 

旧台徳院(二代将軍秀忠)霊廟惣門(重要文化財)の左右に安置される通形の仁王像で、方形台座に乗る石座上に立っています。体内に納められた修理銘札によれば、西福寺(埼玉県北足立郡戸塚村、現川口市:注)観音堂の片隅に安政2年(1855)の暴風で破損したまま置かれていましたが、昭和23年(1948)、同寺三重塔の修理と同時期に修理され、東京浅草寺に移安されたこと、寛政元年(1789)、弘化4年(1847)にも修理が行われたこと、がわかります。以後の詳細は不明で昭和33年前後にこの惣門に安置されたようです。なお、足ほぞや首ほぞ内には弘化4年の墨書銘があり、阿形足ほぞには寛政元年とみえる銘が書かれています。

 本像は18世紀前半までには江戸の仏師によって制作されたと推測され、江戸時代の仁王像として破綻のない作行きを示しています。 

 寄木造り 砥粉地彩色

港区芝公園、ザ・プリンスパークタワー東京の敷地より東京タワーを望む

こちらは東京タワー下からの景色です。

左手に東京 芝 「とうふ屋うかい」の幟が見えます。

増上寺境内の鳥瞰図(1901年)ウイキペディアより

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旧中川・逆井の渡し跡周辺(名所江戸百景)

2018年01月16日 15時53分28秒 | 江戸名所図会めぐり

リハビリサイクリングで亀戸中央公園から逆井の渡し跡周辺を散策しました。

亀戸中央公園では山茶花が咲いています。ちょっと見頃は過ぎましたが昭和の栄が長く咲いていました。

サザンカ冨士の峰はいくつか残っていました。

亀戸中央公園は旧中川に面しています。川にかかる「ふれあい橋」の上から東京スカイツリーで、こちらは上流になります。

写真を撮ろうとしたらユリカモメが寄ってきて橋の欄干に整列しました。

ここから河川敷にでて下流に向かいました。下流の写真は11月のものです。見えなくなっている少し先に逆井橋があります。

橋の袂の両側に渡しの跡碑があります。

こちらは江東区側のものです。

こちらは小松川神社のところにある案内版です。

 

江戸川区側の川岸に立っているものです。

★ランドマーク逆井の渡し跡:中川をわたる逆井の渡しは、『新編武蔵風土記稿』に「中川、村の西を流る、幅四十間許、対岸は亀戸村なり、ここに渡船場あり、元逆井村にありし渡しなるを以て、今も逆井の渡しとよべり、船2艘あり、一は亀戸村の持、一は当村持」とあるように、もとは北隣りの逆井村にあったものが、その後西小松川村(現在の逆井橋付近)に移転したもののようです。ここに江戸と房総を蒸すぶ街道がひらかれたからでした。この街道を元佐倉道といい、区内を北東にほぼ直線で横切って、小岩市川の渡しを渡り、市川から佐倉、成田へ向かいました。明治に入って千葉街道とよばれるようになりました。

 逆井の渡し付近は風景も良く安藤広重が「名所江戸百景」のひとつに描いています。明治12年(1879)、渡し跡に橋が架けられて、逆井の渡しは廃止されました。架橋答辞は村費による架橋費を補うために通行料(橋銭)を徴収する賃取橋でした。明治27年(1894)に橋銭徴収は終わり、明治31年(1898)に、東京府によって架けかえられています。昭和43年(1968)には、江戸川・江東両区の協力で鉄橋になっています。その後、旧中川沿岸の景観整備や、虹の大橋やもみじ大橋・さくら大橋がかけられて、現在のすがたになりました。

広重 「江戸名所百景 逆井のわたし」です。

コサギが描かれていますが、今もコサギが棲んでいます

清流とは言い難いですが、今は魚も捕れるようになりました。

逆井橋から見た、竪川との合流地点です。江東区内の竪川は上は首都高速7号線、川は暗渠になり、堅川河川敷公園となっています。

ランドマーク旧中川:江戸の昔に利根川(江戸川)と隅田川の間を流れることから『中川』と名付けられたと言われています。

旧中川は、1924年荒川放水路に注水を開始したことによって分断された中川の下流部分です。江戸時代には歌川広重の名所江戸百景「逆井の渡し」や江戸名所図会の「平井聖天」(燈明寺)、新編武藏風土記稿の「逆井渡船場図」などで、情緒豊かな川であったことが知られており、川沿いに史跡が残っています。

1945年3月10日の東京大空襲では、猛火を逃れようと川に入った3000人以上が犠牲となりました。その犠牲者の慰霊のために、1999年に「旧中川灯籠流し」が始まり、以来毎年8月15日に行われています。

平常時は、両端の水門を締め切って両端とも荒川へ排水しているため水は流れていませんが、灯篭流しの時だけは木下川水門より取水し、荒川ロックゲート側から排水することにより水流を発生させ、灯篭が流れるように工夫しているということだそうです。

江東区ではここを終起点とした亀戸あさくさ古道を訪ねてという案内板です。これは「亀戸あさくさ古道保存会」(鴇田慶三会長)が、江東区亀戸エリアの古道を紹介するガイドマップを2013年4月上旬に制作するとともに、道中8か所に案内板を設置したものです。

堅川に沿って北側は佐倉道(千葉街道)となっています。分岐点にあった道標を再建したものです。

浅草方面へはここから坂を下りて浅間神社の脇を通って行きます。

両国方面に向かっています。堅川通りとも言ったようです。右手の堅川に六つ目橋があったようです。先が逆井橋になります。

浅間神社のところに六つ目地蔵尊があります。元禄10年(1697年)在銘の庚申塔です。

江戸名所図会中川釣鱚: 天保7年に出版された、江戸の観光ガイドブック『江戸名所図会』には、中川での鱚釣りの様子が描かれており、当時は釣りの名所として有名だったようです。

キャプション:

春鱚は三月の末より四月に入りて盛んなり。春釣りといふは寛文(1661~73)の頃南総伍大力の船頭仁兵衛をはじめとす。岩崎兵太夫といふ人これに継ぐ。いま岩崎流といふはすなはちこの人に始まりて、これより後春鱚を釣ること世に盛んなりしといふ。秋鱚は八月の末より九月なかばを節とす。しかれども十月に至り寒気にうつれば沖に出づるがゆえ川釣りに幸なし。漁人海に産するを白鱚と呼び、川にあるを青鱚と唱う。また鱚に大小の差あり。当歳は腹白く、五、六寸なるを二歳す。腹すこし黄色を帯びて背通り黒みあり。七寸より八寸までを三歳と呼ぶ。腹黄色にして赤みを帯び背の通り黒し。九寸以上を鼻曲がりと号す。鱗あらし。尺に越ゆるを寒風と唱ふるよし漁人の説なり。

 

 明治、大正時代あたりまでは鱚をはじめとする様々な魚が生息していて、釣り好きの文人、幸田露伴などにも愛されたそうです。中川の下流今は荒川となっています。

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自證院(自証院・新宿区富久町)江戸名所図会めぐり

2018年01月11日 23時18分34秒 | 江戸名所図会めぐり

新宿曙橋の鍼灸治療院に通っています。新年最初の治療で少し早めに行き、付近を散策しました。自證院は靖国通りを新宿駅方面に向かっていった坂の上にありました。

奥にある新宿の文化財の案内が外から見えたので何となく寄ってみました。

★ランドマーク自證(証)院:自証院は、寛永17年(1640年)、尾張藩主徳川光友の夫人・千代姫の母、自証院を供養するために創建された寺です。最初は日蓮宗「本理山自証寺」でしたが、天台宗に改宗されました。古くは桜の名所であったといいます。また、堂塔の用材に檜の節目が多いものを用いたため、「ふし寺」または「瘤寺(こぶでら)」とも呼ばれました。 

明治時代末期、この付近に住んでいた文学者・小泉八雲が自証院の風致を大変好みました。境内で杉の木を切り倒す音を聞いて、杉の木がかわいそうでいたたまれなくなって転居したという逸話も残されています。 

境内には、弘安6年(1283年)に造立された、区内最古の阿弥陀三尊種子板碑(新宿区指定有形民俗文化財)などがあります。阿弥陀三尊種子板碑です。

★自証院の阿弥陀三種子板碑:弘安6年(1283)の紀年銘を有する区内最古の板碑であり、その大きさも都内で屈指のものである。

 山形の下に二条線が切りこまれ、天蓋の下に阿弥陀・観音・勢至の三尊の種子がそれぞれ蓮台を配して刻まれ、その下に紀年銘が記されている。天蓋・種子ともに古様を示し、板碑全体が鎌倉中期の特徴を持っている。 当時市谷付近に有力武将の居住を物語るものとして、また浄土信仰の普及を示すものとして貴重である。

なお三尊種子板碑両脇の「栄寿院妙山准心大姉」「元禄八乙寅年六月十九日」の文字は江戸時代の追刻である。

江戸名所図会より

左下の道から坂を上っていったことになります。

江戸切絵図でも「こぶ寺」というと書いてあります。右手の紫のところは尾張殿の広い敷地ですが、そこが現在の市ヶ谷の自衛隊になっています。

本堂

入り口の左手に仏足石

真ん中の桜は新宿区の保護樹になっていました。

★文豪、小泉八雲とのゆかり小泉八雲(Lafecadio Hearn)は明治29年9月東京大学で教鞭をとる為、松江より上京して西大久保に移るまで、5年余り、当自證院の門前に邸を持ち、日々、老杉の生い茂った当院の墓地を逍遥することを楽しみとし、また当時の住職とも心安く、仏教にも深い造詣を有していました。八雲の葬儀は明治37年、当院において営まれ、遺骨は、雑司ケ谷墓地に葬られているそうです。

山門の右手にこんな碑はありました。特に目的として歩いたわけではありませんでした、探していた江戸名所図会の施設に出合えました。

今は狭い土地に押し込まれているように思えましたが、こんな説明書きを見つけました。

天台宗東京教区の公式サイトでより引用させてもらいました。
http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/5jishoin/

自證院は、市谷の高台に位置し、新宿という大都会にしては、静寂の中にあります。

開基は、尾張大納言徳川光友卿の夫人千代姫の生母振(ふり)であって、そのお振の方は大猷院殿(三代将軍徳川家光)の局の一人で寛永17年8月没寂され、法名「自證院殿光山暁桂大姉」と号し、正保4年三代将軍より御朱印寺領二百石を拝領しています。

当寺に葬られるにあたり、現在の市谷の地に壱万六百余坪を賜わって、牛込榎木町よりここに移転しました。

後、寛文元年(1661年)千代姫によって本堂建立が行われ、更に門前の地、三百余坪を買上げて民屋を開き、霊廟掃除の役に供えたのです。

寛永5年(1665年)幕府の不受不施派禁断の令により、以後天台宗に改められ、上野東叡山寛永寺より法印信祐(中興)を招いて住持とし、当寺、台宗の祖となり、これより寺号を「鎮護山、圓融寺、自證院」と称することとなり、前天台座主、本照院一品親王の命により、東叡山輪王寺の常院室となりました。

その後、享保15年(1730年)近隣より出火の為、類焼したので元文3年(1738年)尾張徳川家戸山屋敷内の丸太節木作りの観音堂を拝領して本堂、中門等が再建され、以後、寺域内の諸堂宇等、建立され明治維新に至るまで、広大な寺容を備えていました。

明治4年、明治維新政府の社寺上地令により境内地と墓地の一部を残して寺領の大半は国有地として没収されました。

明治末年、経済的な寺門経営上の困難もあって、墓地は現在の中野区上高田に移転、改葬が行われ、広大な周囲の寺域も樹木を伐採して、宅地として、売却、貸付が行われた為、当時の東京市の都市化進展とあいまって、周辺は宅地化され寺地は著しく縮少され、さらに昭和3年、境内地の一部は、小学校建設用地として東京都に譲渡され、これに際し本堂、庫裡の移転、改築が行われました。

昭和10年代以後、大東亜戦争の激化につれて、梵鐘、銅像などの金属什宝物は強制献納され、創建当時の財物は次第に失われつつあったが、ついに昭和20年4月13日の東京大空襲によって、本堂、庫裡その他、什宝物の一切は灰燼に帰してしまい、現在の本堂、庫裡は昭和52年に再建したものです。

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愛宕神社(港区愛宕)江戸名所図会めぐり

2018年01月10日 22時01分27秒 | 江戸名所図会めぐり

東京タワーのところにある施設の衛生点検に伺いました。ちょっと離れていますが愛宕神社に寄ってみました。今回は参拝者も多く、時間もなかったのであまり写真も撮れませんでした。前回2013年10月28日撮ったものを追加して江戸名所図会めぐりとしてアップします。

★ランドマーク愛宕神社:1603年、慶長8年、江戸に幕府を設く徳川家康公の命により防火の神様として祀られました。
慶長15年、庚戊本社をはじめ、末社仁王門、坂下総門、別当所等将軍家の寄進により、建立されました。祭礼などには下附金を賜るほど、当時の幕府の尊崇は篤いものでした。
その後江戸大火災で全焼してしまいましたが、明治10年、9月に本殿、幣殿拝殿、社務所の再建がなりました。
大正12年9月1日、関東大震災に、昭和20年5月24日帝都大空襲により太郎坊神社を残し社殿は焼失しましたが、昭和33年9月、氏子中の寄付により、御本殿、幣殿、拝殿などが再建され、現在に至ります。(神社のHPより)

2013年の写真です。
【丹塗りの門】ほおずき市の時には、茅の輪が設置され、これをくぐると災いを避けられるということだそうです。

愛宕山:愛宕神社は、標高26メートルの愛宕山の山頂にあります。これは23区内で自然の地形としては一番高い山。春は桜、夏は鬱蒼と茂る樹木の涼と蝉時雨、秋は月と紅葉、冬は雪景色と四季折々の表情で、訪れる人の目を楽しませています。
オフィス街に位置することもあり、境内はお昼休み時は近隣で働く人々でにぎわいます。

2013年10月の時の写真です。

こちらは神社のPHの写真です

【出世の石段(男坂】曲垣平九郎の故事にちなみ「出世の石段」と呼ばれる急な石段です。

今回は上から撮りました。鳥居も赤く塗られています。

こんなものがありました。

★男坂と曲垣平九郎:現在でも「男坂」の急な石段は「出世の石段」と呼ばれている。これは、江戸時代の1634年2月25日(寛永11年1月28日)、徳川秀忠の三回忌として増上寺参拝の帰り、徳川家光が山上にある梅が咲いているのを見て、「梅の枝を馬で取ってくる者はいないか」と言ったところ、讃岐丸亀藩の家臣(曲垣平九郎)が見事馬で石段を駆け上がって枝を取ってくることに成功し、その者は馬術の名人として全国にその名を轟かせた、という逸話から来ている(講談や浪曲の定番、「寛永三馬術」で今も伝わる)。 

以降、出世の石段を馬で登った成功例は今までに3例存在する。1例目は仙台藩で馬術指南役を務め、廃藩後曲馬師をしていた石川清馬で、師の四戸三平が挑み、果たせなかった出世の石段登頂を1882年に自らが成功させ、これにより石川家は徳川慶喜より葵の紋の使用を許された。

 2例目は参謀本部馬丁の岩木利夫で、1925年11月8日、愛馬平形の引退記念として挑戦し、観衆が見守る中成功させた。上りは1分ほどで駆け上がったが、下りは45分を要した。この模様は山頂の東京放送局によって中継され(日本初の生中継とされる)、昭和天皇の耳にも入り、結局平形は陸軍騎兵学校の将校用乗馬として使われ続けることとなった。

 3例目は馬術のスタントマン、渡辺隆馬である。1982年、日本テレビの特別番組『史実に挑戦』において、安全網や命綱、保護帽などの安全策を施した上で32秒で登頂した。(ウイキペディアより)NHK放送博物館側

からの入り口です。

2013年の写真です。

江戸名所図会より

キャプション  宕山高く倚る勝軍宮/晴日登臨す積水の東/江樹千里闕下に連なり/海運一半城中に傍ふ/まさに憐れむ精衛なお水を含むことを/誰か識らん鵬鯤のたちまち風に撃つることを/羞殺す魚塩都会の地/世を治めて陶朱公に似ることなし 服元喬(服部南郭)

愛宕山総門 そのニ 京洛より移遷して武州に座す/壇を築き閣を構へ山丘に陟る/誰か知らん幣帛神封の物/ かへつて沙門活命の謀と作らんは 羅山子

 

正面の階段が男坂、右手の階段が女坂です。以上の3枚が続いて描かれています。キャプション この次ニ丁の図、愛宕本社に至るまで続画(つづきえ)なり。

キャプション

愛宕山円福寺毘沙門の使いは、毎歳正月三日に修行す。女坂の上愛宕おやといへる茗肆(みずちゃや)のあるじ、旧例にてこれを勤む。 この日寺主を始めと支院よりも出頭して、その次第により座を儲け、強飯(ごうはん)をき饗す。半ばに至る頃、この毘沙門の使ひと称する者、 麻上下を着し、長き太刀を佩(は)き、雷槌(すのりき)を差し添え、また大なる飯(いい)がいを杖に突き、初春の飾り物にて兜を造り、 これを冠る。相従ふるもの三人ともに本殿より男坂を下り、円福寺に入りてこの席に至り、俎板(まないた)によりて彳(たたず)み、 飯がいをもて三度魚板(まないた)をつきならして曰く、

「まかり出でたる者は、毘沙門天の御使ひ、院家役者をはじめ寺中の面々、長屋の所化ども、勝手の諸役人に至るまで、新参は九杯、 古参は七杯御飲みやれ御のみや。おのみやらんによっては、この杓子をもって御まねき申すが、返答はいかん」といふとき、この一臈(いちろう) たるもの答へて曰く、

「吉礼の通りみなたべふずるにて候へ」と云々。

「しからば毘沙門の使ひは罷り帰るで御座ある」といひて、本殿へ立ち帰る。

2013年10月の時、虎ノ門ヒルズはまだ工事中でした

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