博多から、次の訪問地久留米に向かいました。暖かい日差しで、つられて昨年も行った大宰府に寄ってみました.
。西鉄大宰府の駅前です。自宅が亀戸天神の近くにあることで、あちこちの天神さん訪ねています。菅原道真が執務していた京都(北野天満宮)と、左遷され亡くなったとされる、ここ大宰府天満宮がルーツとも思われますが、道真が寄った場所とか休んだところとか、大宰府から伝授されたなどどといろいろとあります。3大天満宮というものあり北野と太宰府と防府という説と防府でなく大阪天満宮との説もあるようです。いずれも訪問してみました。
境内に向かいました参道です。
★ランドマーク太宰府天満宮:太宰府天満宮は、菅原道真(すがわらのみちざね)公の御墓所(ごぼしょ)の上にご社殿を造営し、その御神霊(おみたま)を永久にお祀りしている神社です。 「学問・至誠(しせい)・厄除けの神様」として、日本全国はもとより広く世のご崇敬を集め、年間に約800万人の参拝者が訪れています。
道真公は、承和12年(845)に京都でお生まれになりました。幼少期より学問の才能を発揮され、努力を重ねられることで、一流の学者・政治家・文人としてご活躍なさいました。 しかし、無実ながら政略により京都から大宰府に流され、延喜3年(903)2月25日、道真公はお住まいであった大宰府政庁の南館(現在の榎社)において、ご生涯を終えられました。門弟であった味酒安行(うまさけ やすゆき)が御亡骸を牛車に乗せて進んだところ、牛が伏して動かなくなり、これは道真公の御心によるものであろうと、その地に埋葬されることとなりました。延喜5年(905)、御墓所の上に祀廟(しびょう)が創建され、延喜19年(919)には勅命により立派なご社殿が建立されました。 その後、道真公の無実が証明され、「天満大自在天神(てんまだいじざいてんじん)」という神様の御位を贈られ、「天神さま」と崇められるようになりました。
長い年月、道真公へのご崇敬は絶え間なく続き、御墓所でもある太宰府天満宮は全国約12,000社ある天神さまをお祀りする神社の総本宮と称えられ、今日でも多くの参拝者が訪れています。 (天満宮のHPより)
★鳥居:。「鳥居」は神聖な場所である神域への門です。語源は、「通り入る」がなまったという説や、日本最古の歴史書「古事記」に出てくる「鳥の止まり木」など、いくつか説があります。また造りや材質はさまざまで、地域や神社によって異なります。
★楼門:重層の入母屋造り、檜皮葺の二重門。全体は朱塗りされ、堂々たる風格にあふれた佇まいが見事です。慶長年間(1596~1615年)に石田三成が再興しましたが明治時代に焼失、1914年に再建されました。
本殿
これは飛梅です。境内で最初に咲く梅の木ということですでに花が散っていました。
★飛梅伝説:901年(昌泰4)、時の右大臣であった菅原道真は、藤原氏の陰謀により突如大宰権帥に左遷されることになりました。いよいよ故郷である都を離れる日、幼い頃より親しんできた紅梅殿の梅に、 「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春なわすれそ」と詠いかけました。あるじ(道真)を慕った梅は、道真が太宰府に着くと、一夜のうちに大宰府の道真の元へ飛んで来たといわれています。
これが有名な飛梅伝説ですが、もうひとつ別なお話があります。
伊勢度会(わたらい)の社人、白太夫という人が、道真を慕って大宰府に下る折、都の道真の邸宅に立ち寄り、夫人の便りとともに庭の梅を根分けして持ってきたそうです。道真は都から取り寄せたことをふせて、「梅が飛んできた」ということにした、ともいわれています。
飛梅は、もともと道真の配所であった榎社にありましたが、太宰府天満宮の造営後、本殿横の現在の場所に移されたとのことです。
これは前年の2月27日の写真です。
皇后の梅
観光客がたくさん訪れていました。
こちらは護神牛です。
★御神牛由緒:道真公は、承和12年(845)乙丑(きのとうし)の歳のお生まれだそうで、道真公が59歳の春に亡くなられた時、お亡骸を乗せた牛車が、都府楼の北東(うしとら)の方向へ向かって進んでいたところ、まもなくその牛が動かなくなりました。それを道真公の御心によるものだとして、牛車の止まったところ、当時の四堂のほとりに御遺骸を葬ったそうです。人々は道真公を慕い、お墓の上にお社を建てました。これが現在の大宰府天満宮の始まりだそうです」
知恵をつけたいのと、腰が痛いのを直したいのか、その部分がより光って見えました。私の腰痛もあやかりたいところです。こちらは緋鯉です。水鏡神社と同じようにりっぱな鯉が泳いでいました。
飛梅は散っていましたが、いろいろなことで奉納された梅の木が境内いっぱいに咲いていました。。
どうしても赤みのある花が目立ちますが、白い梅の清楚さを撮りたいと思っていくつか撮ってみました。
心字池と橋
★心字池と橋:心字池に架かる橋は太鼓橋・平橋・太鼓橋の、三橋からなり、ひとつめから「過去」「現在」「未来」という三世一念という仏教思想で心字池を端から端まで渡る事で参拝者の身が清められ本殿へ向かう事になるそうです。右の太鼓橋から向かいます。これは志賀神社です。橋の途中にある社、海の神「綿津見」三神が祀られています。国の重要文化財に指定されているそうです。
黒田官兵衛のゆかりの地ということです。
★天然記念樹の大樟(楠)
★夢塚の碑:天保14年(1843年)10月12日、菊屋平兵衛が松尾芭蕉の百五十年忌にあたり、
旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
の辞世より、芭蕉は、若いころに大宰府に参詣した事を記し、再度参拝の夢を持っていたとして、建碑したもの。芭蕉は連歌の先達、宗祇のように筑紫路への旅を夢みていたという。
太宰府天満宮の散策を終え、午後からの仕事のために、久留米に向かいました。
昨年昼食を食べたお店は定食が完売ということで、近くの魚料理店で奮発して1200円の刺身定食にしましたが、ちょっと物足りませんでした。アーケード街でネコさんに出合いました。鍼灸院のドアに向かって中に入れてくれと鳴いていました。あとで、お客さん?と一緒に入っていきました。
施設に向かうところの水路、恵比寿橋の近くに、白い花が咲いているので近寄ってみました。コブシですか?
久留米市恵比寿橋
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