東京タワーのところにある施設の衛生点検と衛生会議を2か月に一度行っています。2か月ごとに2回訪れることになります。その都度少し周辺を散策していますが、今回は大門から向かい、旧方丈門の旧台徳院霊廟惣門などを散策しました。
錦糸町から半蔵門線で清澄白河で都営大江戸線に乗り換えで大門に向かいました。増上寺の大門です。
★ランドマーク増上寺大門:「大門」は、増上寺の旧総門です。大門は、増上寺が明治維新の上地令により寺領が奪われるなどして経済的に困窮し維持できなくなったため東京府に寄付され、東京府の所有となっていた。現在の大門は昭和12年に東京市が市民の寄付を募って従来の意匠のまま高さを1.5倍の5.25mにし、コンクリート造りで改築したものです。その後何らかの理由で東京都の財産目録から抜け落ちてしまい、所有者が確認できなくなっていました。
その後東京都が調査を行い、都の所有物であり都の財産台帳から誤って抹消されたものであると認めると同時に、大門の建物としての鑑定を行い資産的価値はないものとして増上寺に無償で譲与することを決定し、2016年3月25日に東京都から増上寺に返還されました。増上寺では11月から耐震補強・外観化粧直しの改修工事を進め2017年3月に竣工しています
重要文化財 三解脱門(三門)
大正4年(1915)3月26日指定
慶長16年(1611年)、徳川家康公の助成により、幕府の大工頭・中井大和守の配下によって建立され、元和8年(1622)に再建されました。
略称を三門といい、貪欲・瞋恚・愚痴の三悪(三毒)を解脱するという意味からこの名があります。
間口・十間余(約19m)、奥行五間(約9m)、高さ七丈(約21m)の二層建てで、左右に三間(5.4m)の山廊を有している三解脱門は、東京都内最古の建築物であるだけでなく、東日本最大級の大きさを誇っています。
入母屋造りの建築様式で朱漆塗りの三解脱門は、増上寺が江戸の初期に造営された当時の面影を残す唯一の建造物として、国の重要文化財の指定を受けています。
様式は、組み物などは唐様を中心とし、勾欄などに和様、天竺様が加味されている。桜内には慶長から元和年間にかけて京仏師によって作られた釈迦三尊像、十六羅漢像などが安置されている。
今回は隣の旧方状門を散策しました。
★東京都港区指定文化財 有形文化財 増上寺旧方丈門(黒門)
増上寺の方丈(庫裡)の表門であったので方丈門とよばれ、また全体が黒漆塗であたために黒門ともよばれた。四脚門で、建造年代を明らかにする棟札などの記録は見出せないが、江戸時代初期の特徴を示す様式から17世紀後半のものと推測される。
蟇股には唐獅子や牡丹が浮彫されていて、精巧で写実的な図柄は、近世の建築彫刻の特色を示している。長年の風蝕のため、古色をおびているが、桃山建築の豪華さのおもかげがうかがえる。
昭和55年11月15日 東京都港区教育委員会
さらに隣に向かいました。
【台徳院霊廟惣門】
台徳院霊廟惣門は、台徳院(2代将軍徳川秀忠)の霊廟の表門です。台徳院霊廟は、増上寺の本堂の南側に、寛永9年(1632)に造営されたもので、2代将軍徳川秀忠の霊廟です。 増上寺の徳川家霊廟の中で、最も規模が大きく、地形の起伏を利用した壮麗な建築群を誇っていました。
しかし、昭和20年の戦災で、多くの建物が喪失して、焼失を免れたのは。惣門、勅額門、御成門、丁字門のみでした。 そのうちの惣門が現地に保存されています。 それ以外の門は狭山不動寺(埼玉県)へと移築されて現存しています。
『江戸図屏風』に描かれた台徳院霊廟
★台徳院霊廟は増上寺本堂南側の南御霊屋に東を正面として営まれた。所在地は現在の港区芝公園、ザ・プリンスパークタワー東京の敷地にあたる。霊廟の北には隣接して崇源院(秀忠夫人)霊牌所があった。台徳院霊廟建物群の配置はおおよそ次のようであった(以下、太字は旧国宝建造物)。霊廟の入口には惣門があり、これを入って参道を進むと勅額門がある。勅額門を入って右方には丁子門があり、北隣の崇源院霊牌所との間の仕切門となっていた。勅額門をくぐってさらに参道を進むと、左右に1棟ずつの水盤舎があり、正面が中門である。中門左右から発する透塀が御霊屋を囲む。御霊屋は本殿・相之間・拝殿が一体となった権現造である。本殿の右(北側)に渡廊が接続する。これらの建物群の左方(南方)の小高い場所に奥院(墓所)があり、奥院へ向かう参道の途中に御成門がある。奥院には拝殿、中門、玉垣があり、玉垣で囲まれた内側に、覆屋内に建つ宝塔(墓塔)がある。『江戸図屏風』にはこれらの建築物が位置関係も含めて正確に描写されており、また五重塔もあったことが見て取れる。(ウイキペディアより)
★木造仁王像(港区指定有形文化財)
法 量 像高 阿形243.5cm 吽形247.0cm
吽形像(左)
阿形像(右)
旧台徳院(二代将軍秀忠)霊廟惣門(重要文化財)の左右に安置される通形の仁王像で、方形台座に乗る石座上に立っています。体内に納められた修理銘札によれば、西福寺(埼玉県北足立郡戸塚村、現川口市:注)観音堂の片隅に安政2年(1855)の暴風で破損したまま置かれていましたが、昭和23年(1948)、同寺三重塔の修理と同時期に修理され、東京浅草寺に移安されたこと、寛政元年(1789)、弘化4年(1847)にも修理が行われたこと、がわかります。以後の詳細は不明で昭和33年前後にこの惣門に安置されたようです。なお、足ほぞや首ほぞ内には弘化4年の墨書銘があり、阿形足ほぞには寛政元年とみえる銘が書かれています。
本像は18世紀前半までには江戸の仏師によって制作されたと推測され、江戸時代の仁王像として破綻のない作行きを示しています。
寄木造り 砥粉地彩色
港区芝公園、ザ・プリンスパークタワー東京の敷地より東京タワーを望む
こちらは東京タワー下からの景色です。
左手に東京 芝 「とうふ屋うかい」の幟が見えます。
増上寺境内の鳥瞰図(1901年)ウイキペディアより
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