ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

深川芭蕉庵跡(江東区常盤1丁目)江戸名所図会めぐり

2017年07月02日 21時25分47秒 | 江戸名所図会めぐり

何回か訪れていますがブログにアップできませんでいた。6月の末にも訪れたのでまとめてアップします。

江戸名所図会より

キャプション:古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉

この芭蕉庵があったところが芭蕉稲荷神社となっています。、古池や蛙飛びこむ水の音 と書かれているのでしょうか

『江戸名所図会』のキャプションに、「はせを」とあるのは、芭蕉のことだそうです。

 松尾芭蕉が深川に移り住んだのは、延宝8年(1680)芭蕉37歳の時だそうです。芭蕉は、延宝8年(1680)から元禄7年(1694)まで門人の杉山杉風(さんぷう)の生け簀の番屋を改築して、芭蕉庵として住んでいました。

  芭蕉稲荷神社(芭蕉庵跡)は小名木川に架かる万年橋の北に祀られています。芭蕉庵は、芭蕉没後に消え去りその場所も長く行方不明になっていましたが、大正6年(1917)の大津波の時、元々あった稲荷神社付近から芭蕉遺愛のものとみられる石蛙が見つかったことからここを芭蕉庵跡と推定し、祠に石蛙を祭り芭蕉稲荷としたようです。

  かの有名な「古池の句」はこの芭蕉庵で貞享3年(1685)の春、詠まれたそうです。

★ランドマーク芭蕉庵旧地: 俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝8年から元禄7年大阪で病没するまでここを本拠とし「古池や蛙飛びこむ水の音」の名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出て有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。

  ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり、幕末、明治にかけて滅失してしまった。

  たまたま大正6年(1917)津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同十年東京府は常磐一丁目を旧跡に指定した。

  昭和20年(1945)戦災のため当所が荒廃し、地元の芭蕉遺跡保存会が昭和30年(1955)復旧した。

  しかし、当所が狭隘であるので常磐北方の地に旧跡を移転し江東区において芭蕉記念館を建設した。 昭和56年3月吉日  芭蕉遺跡保存会

いろいろな碑が建っています。

 

ここの近くに深川芭蕉庵史跡展望公園があります。上の芭蕉稲荷神社の西側、隅田川と小名木川の合流点にあります。

芭蕉庵近くの小名木川に架かる橋は万年橋です。

葛飾北斎 富嶽三十六景 深川万年橋下

右の隅隅田川と合流するところに芭蕉庵があったようです。

右手のところが芭蕉庵跡で橋は清洲橋でケルン市に架けられたライン河の吊橋をモデルにしているようです。

万年橋のところには川船番所があったようです。

広重も描いています。

広重 深川万年橋

 江戸名所図会

深川霊雲院(戦災で、東村山市富士見町5-10-53へ移転)の左下の橋が万年橋です。

屋上に登ります。小名木川と隅田川の合流地点です。向こうに見える橋が清洲橋です。左手に行ったところに万年橋があります。

園内には描かれたもが飾られています。

芭蕉翁の像です。上流は新大橋です。

隣に

正木稲荷神社があります。芭蕉庵跡と深川芭蕉庵史跡展望公園の間にあるので道路から見えるように由来碑が立っています。

 

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