ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

稲荷森稲荷神社

2014年01月20日 21時33分10秒 | 訪問地周辺散策

3年ぶりに千歳船橋にある施設を訪問しました。今回は、近くに稲荷森稲荷神社があるということで寄ってみました。

稲荷森稲荷神社の由緒

神社のHPより
稲荷森稲荷神社草創の記録は残っておらず、残念ながら不明です。当神社は古くは「菅刈社」と呼ばれておりました。
江戸時代の『新編武蔵風土記稿』には、「菅刈社」とあり、「地名を冠するのだから、古い由緒ある社であろう」と記されています。因みに当地は「菅刈庄」といわれていました。

明治時代、土地の古老たちは、
 「奥州へ落ち延びた源義経を追って静御前がやってきて、当神社で一夜を明かした」
 と、言い伝えていました。

また、当神社は、昭和20年代初めまで鬱蒼とした森でした。雨が降っても神社の境内に入ると傘はいらない、といわれるほどでした。稲荷森(とうかんもり、土地の人々はこのように呼び習わしておりました。)といわれる所以でしょう。現在の神社名は、これによっております。
神社の前を往来する人々、馬方達はしばしばこの森を雨宿りや休憩に利用していたようです。江戸時代の馬方達が奉納した木彫が旧拝殿(元の御神庫、拝殿向って右、瓦葺の建物)に現在も残っています。
前の社務所は、戦争後の物資の乏しい時代に、境内の樹木を伐採し、それを製材して建てられました。また、残された大木も大気汚染などにより次々に枯れ、今では往時の森の姿は想像も出来ません。

と書かれています。

ただ、その後に植えられたものだと思いますが、結構大木になったイチョウと欅がありました。こちらはイチョウの木です。

鳥居

本殿です。

ここに祀れているのは「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」だそうです。これが何故「いなり」といわれるのかも神社のHPにありました。

「山城国風土記」逸文の「伊奈利社」の条に、 秦中家忌寸(はたのなかついえのいみき)達の遠い祖先に伊侶具(いろぐ)という人がおりました。稲をたくさん蓄えてたいへん裕福でした。裕福のあまり奢りたかぶって、丸い餅を弓の的にしました。すると、的の丸い餅は白い鳥となって飛び去り、稲荷山の峰に行き、白い鳥は稲となりました。
白い鳥が稲になったというのを、原文は「伊禰奈利生(いねなりお)ひき」とかいてあります。このことから、「いねなり」から「いなり」という神社の名になった。
と書かれています。
また、この神様は翁の姿で稲を荷なって現れたと申します。それで「稲荷(いなり)」という、ともいわれています。

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千鳥ヶ淵の鳥たち

2014年01月15日 22時02分01秒 | 訪問地周辺散策

市ヶ谷にある施設を訪問しました。帰りは九段下まで歩いてみました。

途中に靖国神社があります。戦争遂行の精神的なシンボルとなったここには、あまり興味はないのですが、中を歩いてみたら花が咲いていました。

四季桜というようです。

千鳥ヶ淵に出てみました。ここは鳥たちの天下でした。

にぎやかに輪になって泳いでいました。

反対側のお堀(牛ケ淵)には2羽のカラスが

桜の名所ですが咲いていたのは水仙のみでした。牛ヶ淵側の堤です。

 

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小村井梅園

2014年01月13日 22時13分05秒 | 自宅周辺探索

吾嬬神社から明治通を先に行って、最初の信号を左に曲がったすこし先に小村井香取神社がありました

香取神社は、旧下総の国の一宮の分社であり、平安時代末期、小村井の地を開拓する為に千葉県香取郡から6軒の人々が移住した後、この地の氏神様として鎮守したものだそうです。

参道の両側に梅園がありました。

江戸時代、南葛飾群小村井村の 小山孫一郎の梅園は、園内に富士山に似た築山・茶屋池・石などが配置され、辺り一帯には紅梅・白梅の木が多く植えられ、時期には大勢の
江戸庶民が花見に訪れたそうです。この梅園も俗に「梅屋敷」と呼ばれておりました。「臥龍梅」の亀戸・梅屋敷よりはるかに敷地も広く、3300坪に及んだそうです。
毎年、梅花の時期になると将軍のお成りがあり、園内には「御成り梅」といわれた梅の木もあったそうです。江戸末期の慶応3年に発行された 安藤広重の「絵本江戸土産」の中に、小村井梅園の図があります。
この梅屋敷は、亀戸の梅屋敷などと同じく、1910年(明治43年)の大水害で廃園となってしまいました。小村井梅園は、平成6年 かつての「梅屋敷」を忍んで香取神社境内に再開されたものです。

入り口左手の梅園の紅梅と白梅が少し花を咲かせていました。

本殿です。

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吾嬬神社

2014年01月13日 19時17分48秒 | 自宅周辺探索

 

連休の最終日はテニスを休んで自転車で散策しました。

20131108_140907_3

前にスカイツリーを撮影した福神橋を渡ると右手に神社の石碑が見えました。

 

吾嬬(あずま)神社

 すみだの歴史や文化などを、人や地域、施策等を通して紹介する「ひと・まち歳時記」。今回は、「吾嬬の森伝説」に起源を発し、多くの区の文化財が保存されている吾嬬神社をご紹介します。

今も伝説が語り継がれる

 吾嬬神社は、正治元年(1199年)に当時の鎌倉幕府執権 北條 泰時の命により造営されました。吾嬬神社一帯は、かつて「吾嬬の森」と呼ばれ、古くから次のような伝説が残されています。
 日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国平定のため、三浦半島走水(はしりみず)(現在の浦賀付近)から木更津へ向かい海を渡ろうとした際、暴風雨に見舞われました。その時、妻である弟橘姫(おとたちばなひめ)が海に身を投じて海神の怒りを鎮め、尊は無事に房総へ渡ることができたそうです。その後、姫の箸(はし)などの遺品が吾嬬の森に流れ着き、尊がそれを祀る塚を造ったことが、吾嬬神社の起源とされています。また、尊が「あずまはや(わが妻は)」と妻の死を嘆いたことから、この一帯が「あずま」と名づけられたといわれています。
 さらに、塚にさした姫の箸が成長し楠(くすのき)になったという伝説もあり、今も吾嬬神社の境内にその根と幹の一部が残っています。同様の伝説が東京湾沿岸に多いことから、吾嬬の森一帯はかつて、海岸線であったと考えられています。

「あずま」の名を残す神社

 吾嬬神社の境内には、明和3年(1766年)に建立された弟橘姫顕彰の「下総国葛飾郡吾嬬森碑」(しもうさのくにかつしかぐんあずまのもりひ)や天明3年(1783年)建立の「吾嬬神社縁起碑」(あずまじんじゃえんぎひ)があるなど、その歴史の重みを物語っています。
 神社周辺は明治から大正にかけ吾嬬村、吾嬬町と地名を変えていきましたが、昭和41年、ついに「吾嬬」の文字は使われなくなりました。その後は、弟橘姫の故事を偲(しの)び、「橘」を読みやすくした「立花」が町名として使用されるようになりました。しかし、現在でも「吾嬬」は、小・中学校の校名等に使われるなど、広く住民に親しまれています。墨田区HPより

吾嬬神社の連理の楠

吾嬬神社境内の社殿東側にある神木のことを呼びます。ひとつの根から二つの幹が出たもので、明治時代末期までその威容を誇りましたが、大正年間には枯れていたことが写真資料からわかります。
 吾嬬神社は、『葛西志』の中で吾嬬の森の神社としてすでに旧跡として認知されていました。『江戸名所図絵』や歌川広重の『江戸名所百景』には、連理の楠が描かれており、人々によく知られていたことがうかがえます。また、『本所雨やどり』には、この木の枝葉を煎じて飲むと諸病が癒えると信じられていたことが記されています。
 枯れた根と一部の幹が垣根の中にあり、直径は2メートルをこえます。昭和38年に建てられた神樟の碑とともに保存されています。墨田区HPより

狛犬この狛犬は比較的小型の一対ですが、世話人10名と奉納者22名もの名前が刻まれています。
そのほとんどが築地小田原町(中央区築地6・7丁目)や本船町地引河岸(中央区日本橋本町)など日本橋の商人であることから、海運・漁業関係者とのつながりをよく表しているといってよいでしょう。
このことは吾嬬神社の由来に起因しています。
日本の神話に、日本武尊やまとたけるのみこと命が現在の東京湾を舟で渡っている時に海神の怒りに触れ、往生していた時に妻の弟橘媛おとたちばなひめが海に身を投げて海神の怒りを鎮めたという話があります。
この媛の品が流れ着いた所がこの地だったということです。
以来、海や川で働く人々の守護神として信仰されてきたわけです。
また、昔は地盤沈下していなかったため、この社の裏の「吾嬬の森」と呼ばれた森が小山のように広がり、海上からの好目標だったことも崇敬を集めた理由のひとつでしょう。
現在、鉄柵の奥にあるために近づくことはできませんが、かえって台座に刻まれた人名など、良い状態で保存されています。
平成9年3月
墨田区教育委員会

福神稲荷神社
御祭神:宇賀之魂之命、大国主之命、金山彦之命
当社は元亀戸四丁目地蔵川岸のほとりに鎮座していましたが(1922)吾嬬神社旧社務所の位置に有縁の地とし御遷座もうしあげました。その後第二次世界大戦の災禍をうけ周囲家屋他草木に到る迄焼け尽きた中この社殿全く無被害の不思議な現象に奇跡なりと御神徳に人々は驚異の目を見張りました。吾嬬神社復興事業(1946)執行の折社殿を現在の場所へ再び御遷座申し上げ此処に吾嬬神社と共に庶民の守護神とて奉祭申し上げて居ります。尚この奇跡の社殿を出来る限り永く保存して次世代に伝え様と略して印す次第であります。(境内掲示より)

吾嬬森碑

この碑は、明和3年(1766)に山県大貮が建てました。
碑文に日本武尊やまとたけるのみことの東征と、尊の妃・弟橘姫おとたちばなひめが入水して海神を鎮めたことなどを記して、姫の事蹟を顕彰しています。
このあたりは江戸時代から吾嬬の森とか、浮洲の森とも呼ばれて有名でした。
山県大貮は、医を業とし、地理・数学・兵法にも通じていました。
尊皇の志篤く、幕政を批判するなどのことがあり、ついに捕らえられて、明和4年死罪に処せられました。

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市谷亀岡八幡宮

2014年01月10日 18時47分20秒 | 近郊地散策

金曜日は曙橋の鍼灸治療に行くので、一駅前の市谷で降りて歩いてみました。神田川を渡ったところに亀岡八幡宮というのがあったので、寄ってみました。

ウイキペディアによると:当神社は太田道灌が1479年、江戸城築城の際に西方の守護神として鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀ったのが始まりである。「鶴岡」に対して亀岡八幡宮と称した。当時は市谷御門の中(現在の千代田区内)にあった。しかし、その後戦火にさらされ荒廃していったが、江戸時代に入り寛永13年頃(1636年頃)に江戸城の外堀が出来たのを機に現在地に移転した。 市谷亀岡八幡宮は三代将軍・徳川家光や桂昌院などの信仰を得て、神社が再興された。江戸時代には市谷八幡宮と称した。境内には茶屋や芝居小屋なども並び人々が行き交い、例祭は江戸市中でも華やかなものとして知られ、大いに賑わったという。その後明治に入り、神仏分離令により別当寺であった東円寺が廃寺となり(1872年)、芝居小屋などは撤退し樹木が植えられかつての賑わいはなくなっていった。その後、1945年に第二次世界大戦による戦火により神木なども含め焼失。1962年に現在の社殿が再建される。現在でも地域の人々などから信仰を得ている。と書かれていました。

階段途中には

茶の木稲荷神社がありました。

PHから

空海が関東下向の時に開山、幅広いご利益
茶ノ木稲荷神社縁起市谷八幡神社の境内、石段左の方中段に御鎮座しております茶木稲荷神社。今をさる一千年余りの昔、弘法大師が初めて御鎭祭申上げたのが当社と伝えられています。この山の地主の神でありまして古来この地を稲荷山【いなりやま】と呼んだのも、そのいわれによるものです。御祭神は保食神【うけもちのかみ】、すなわち稲荷大神です。この大神は、食物衣服のことを司るのが主なる御神徳ですが、その他、家内屋敷の安全を始め、農業、工業、商業の繁昌、諸技藝の上達、交通旅行の安全等を護り、幅広いご利益を持っています。

眼病平癒の伝説
御祭神は、古来病気平癒に特別の信仰があります。古くから伝わるところによれば、昔この山に稲荷大神の御神使の白狐が居ましたが、ある時あやまって茶の木で目をつき、それ以来崇敬者は茶を忌み、正月の三ヶ日は茶を呑まない習俗がありました。特に眼病の人は一七日、或は三七日二十一日の間茶をたって願えば霊験があらたかであったと言われており、その他様々な願いが成就したということです。

銅鳥居です。

茅の輪

本殿

紅梅

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