ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

吾嬬神社

2014年01月13日 19時17分48秒 | 自宅周辺探索

 

連休の最終日はテニスを休んで自転車で散策しました。

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前にスカイツリーを撮影した福神橋を渡ると右手に神社の石碑が見えました。

 

吾嬬(あずま)神社

 すみだの歴史や文化などを、人や地域、施策等を通して紹介する「ひと・まち歳時記」。今回は、「吾嬬の森伝説」に起源を発し、多くの区の文化財が保存されている吾嬬神社をご紹介します。

今も伝説が語り継がれる

 吾嬬神社は、正治元年(1199年)に当時の鎌倉幕府執権 北條 泰時の命により造営されました。吾嬬神社一帯は、かつて「吾嬬の森」と呼ばれ、古くから次のような伝説が残されています。
 日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国平定のため、三浦半島走水(はしりみず)(現在の浦賀付近)から木更津へ向かい海を渡ろうとした際、暴風雨に見舞われました。その時、妻である弟橘姫(おとたちばなひめ)が海に身を投じて海神の怒りを鎮め、尊は無事に房総へ渡ることができたそうです。その後、姫の箸(はし)などの遺品が吾嬬の森に流れ着き、尊がそれを祀る塚を造ったことが、吾嬬神社の起源とされています。また、尊が「あずまはや(わが妻は)」と妻の死を嘆いたことから、この一帯が「あずま」と名づけられたといわれています。
 さらに、塚にさした姫の箸が成長し楠(くすのき)になったという伝説もあり、今も吾嬬神社の境内にその根と幹の一部が残っています。同様の伝説が東京湾沿岸に多いことから、吾嬬の森一帯はかつて、海岸線であったと考えられています。

「あずま」の名を残す神社

 吾嬬神社の境内には、明和3年(1766年)に建立された弟橘姫顕彰の「下総国葛飾郡吾嬬森碑」(しもうさのくにかつしかぐんあずまのもりひ)や天明3年(1783年)建立の「吾嬬神社縁起碑」(あずまじんじゃえんぎひ)があるなど、その歴史の重みを物語っています。
 神社周辺は明治から大正にかけ吾嬬村、吾嬬町と地名を変えていきましたが、昭和41年、ついに「吾嬬」の文字は使われなくなりました。その後は、弟橘姫の故事を偲(しの)び、「橘」を読みやすくした「立花」が町名として使用されるようになりました。しかし、現在でも「吾嬬」は、小・中学校の校名等に使われるなど、広く住民に親しまれています。墨田区HPより

吾嬬神社の連理の楠

吾嬬神社境内の社殿東側にある神木のことを呼びます。ひとつの根から二つの幹が出たもので、明治時代末期までその威容を誇りましたが、大正年間には枯れていたことが写真資料からわかります。
 吾嬬神社は、『葛西志』の中で吾嬬の森の神社としてすでに旧跡として認知されていました。『江戸名所図絵』や歌川広重の『江戸名所百景』には、連理の楠が描かれており、人々によく知られていたことがうかがえます。また、『本所雨やどり』には、この木の枝葉を煎じて飲むと諸病が癒えると信じられていたことが記されています。
 枯れた根と一部の幹が垣根の中にあり、直径は2メートルをこえます。昭和38年に建てられた神樟の碑とともに保存されています。墨田区HPより

狛犬この狛犬は比較的小型の一対ですが、世話人10名と奉納者22名もの名前が刻まれています。
そのほとんどが築地小田原町(中央区築地6・7丁目)や本船町地引河岸(中央区日本橋本町)など日本橋の商人であることから、海運・漁業関係者とのつながりをよく表しているといってよいでしょう。
このことは吾嬬神社の由来に起因しています。
日本の神話に、日本武尊やまとたけるのみこと命が現在の東京湾を舟で渡っている時に海神の怒りに触れ、往生していた時に妻の弟橘媛おとたちばなひめが海に身を投げて海神の怒りを鎮めたという話があります。
この媛の品が流れ着いた所がこの地だったということです。
以来、海や川で働く人々の守護神として信仰されてきたわけです。
また、昔は地盤沈下していなかったため、この社の裏の「吾嬬の森」と呼ばれた森が小山のように広がり、海上からの好目標だったことも崇敬を集めた理由のひとつでしょう。
現在、鉄柵の奥にあるために近づくことはできませんが、かえって台座に刻まれた人名など、良い状態で保存されています。
平成9年3月
墨田区教育委員会

福神稲荷神社
御祭神:宇賀之魂之命、大国主之命、金山彦之命
当社は元亀戸四丁目地蔵川岸のほとりに鎮座していましたが(1922)吾嬬神社旧社務所の位置に有縁の地とし御遷座もうしあげました。その後第二次世界大戦の災禍をうけ周囲家屋他草木に到る迄焼け尽きた中この社殿全く無被害の不思議な現象に奇跡なりと御神徳に人々は驚異の目を見張りました。吾嬬神社復興事業(1946)執行の折社殿を現在の場所へ再び御遷座申し上げ此処に吾嬬神社と共に庶民の守護神とて奉祭申し上げて居ります。尚この奇跡の社殿を出来る限り永く保存して次世代に伝え様と略して印す次第であります。(境内掲示より)

吾嬬森碑

この碑は、明和3年(1766)に山県大貮が建てました。
碑文に日本武尊やまとたけるのみことの東征と、尊の妃・弟橘姫おとたちばなひめが入水して海神を鎮めたことなどを記して、姫の事蹟を顕彰しています。
このあたりは江戸時代から吾嬬の森とか、浮洲の森とも呼ばれて有名でした。
山県大貮は、医を業とし、地理・数学・兵法にも通じていました。
尊皇の志篤く、幕政を批判するなどのことがあり、ついに捕らえられて、明和4年死罪に処せられました。

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