ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

大阪城夏の陣

2013年08月08日 11時54分12秒 | 城址散策

出張で大阪に泊まりました。暑くて、訪問地以外に寄り道するのはためらっていたのですが、前日京阪線で京都に出かけた時に京橋と天満橋の間でライトアップされた大阪城が見えたので寄ることにしました。天満橋で下車して城に向かおうとしましたが、城が見えずなんとなく歩いていると、保健所の現役時代に集会で良く利用したエル大坂の周辺に来てしまいました。それでなんとなく城の方面を思い出しました。

暑い中もっと正確に地図で確かめておかなかったことを悔いながら歩きました。ようやくたどり着きました。
ここから入って行きました。大手口の千貫櫓です。

★ランドマーク大阪城大阪城はウイキペディアによると、通称「太閤さんのお城」とも呼ばれているが、現在の大阪城は江戸時代に建てられたもので、1959年(昭和34年)の大阪城総合学術調査において、城跡に現存する櫓や石垣などもすべて徳川氏、江戸幕府によるものであることが確認された。

大坂城は、上町台地の北端に位置する。かつて、この地のすぐ北の台地下には淀川の本流が流れる天然の要害であり、またこの淀川を上ると京都に繋がる交通の要衝でもあった。

元々は古墳時代の古墳があったと言われ、戦国時代末期から安土桃山時代初期には石山本願寺があったが、1580年(天正8年)に石山合戦で焼失した。石山合戦終了後、織田信長の命令で丹羽長秀に預けられ、後に四国攻めを準備していた津田信澄が布陣したこともあったが、信澄は本能寺の変の際に、丹羽長秀に討たれた。

その後、清州会議で池田恒興に与えられるも、ただちに美濃へ国替えとなり、秀吉によって領有された。そして秀吉によって大坂城が築かれ、豊臣氏の居城および豊臣政権の本拠地となったが、大坂夏の陣で豊臣氏の滅亡とともに焼失した。

徳川政権は豊臣氏築造のものに高さ数メートルの盛り土をして縄張を改め再建した。その後、江戸幕府が大坂城代を置くなど近畿地方、および西日本支配の拠点となった。文献等にもよるが、日本三名城のひとつに数えられる場合もある。」と書かれていました。

ちょうど大阪城夏の陣400年記念行事をしていました。

何度か訪れていたのですが、天守閣の内部には初めて入りました。

内部を見学していると「大坂夏の陣図屏風 (大阪城天守閣・国指定重要美術品)」を解説するビデオが流れていました。通りかかった時にちょうど京街道を敗走する敗残兵や女性たちの悲惨な状況の説明をしていました。
昨日通った枚方の京街道がこんなだったということでビデオを凝視してしまいました。京街道を京都に向かう人たちと、中東やアフリカなどの難民の姿と重なります。
「ランドマーク探し」でいろいろな城を写真に撮っていますが、その度にこの城を作るには、平民が奴隷のようにこき使われたのだろうという、悲しい思が先に立ってしまいます。
いつの時代も苦労するのは最下層の民衆であったことを考えてしまいます。戦後68年どうにか内戦も外国との戦争もなく過ごせたことに感謝するとともに、もう一度戦前に戻るような憲法改悪とか自民党の憲法草案など到底許せないと思います。
大坂夏の陣図屏風はユーチューブ
http://www.youtube.com/watch?v=89xgfjIM_tE
で見られますが、説明がないのが残念です。


コメント
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