ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

年越し前の亀戸天神

2016年12月18日 21時24分59秒 | 社寺仏閣

小春日和に誘われて自宅周辺を散策しました。いつも初詣にいく亀戸天神はそろそろ初詣の準備をしていました。冬空に亀戸天神の拝殿と東京スカイツリーです。

太鼓橋とスカイツリーもビューポイントです。

心字池にかかる最初の太鼓橋は男橋というらしいです。

★ランドマーク亀戸天神正保年間(1644年 - 1647年)、菅原道真の末裔であった九州の太宰府天満宮の神官、菅原大鳥居信祐は、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもち、諸国を巡った。そして1661年(寛文元年)、江戸の本所亀戸村にたどり着き、元々あった天神の小祠に道真ゆかりの飛梅で彫った天神像を奉祀したのが始まりとされる。

当時、明暦の大火による被害からの復興を目指す江戸幕府は復興開発事業の地として本所の町をさだめ、四代将軍徳川家綱はその鎮守神として祀るよう現在の社地を寄進した。そして1662年(寛文2年)、地形を初め社殿・楼門・回廊・心字池・太鼓橋などが太宰天満宮に倣い造営された。

古くは総本社に当たる太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」「本所宰府天満宮」と称されていたが、1873年(明治6年)に府社となり亀戸神社、1936年(昭和11年)に現在の亀戸天神社となった。ウイキペディアより

葛飾北斎作『諸国名橋奇覧』より、「かめゐど天神たいこばし」です。

紅梅澱は1662年(寛文2年)に太宰府天満宮の神木である飛梅の実生を勧請したもの。現在の社は、1988年(昭和63年)に再建されたものです。

心字池の東側にあるのは花園社です。花園社は、道真の妻である島田宣来子および14人の子供を祀る。寛文年間に筑前花園より勧請を受けたものである。安産、子宝、立身出世の守護神として信仰されています。

 鷽替え(うそかえ)とは、“うそ”は幸運を招く鳥とされ、毎年新しい”うそ”に替えると、これまでの悪い事が“うそ”になり一年の吉兆を招いて開運・出世・幸運を得ることができるという。江戸時代には、多くの人が集まり木彫りの”うそ”を交換する習わしが生じ、それが現代に引き継がれている。

石碑が多く立っていますがこれは新しいもので文房至宝と書かれています。

文房至宝碑
中国より渡来した紙筆墨硯は文房四宝と称せられ読み書き算盤の寺子屋時代から明示の学制発布により高い文化を育てる文具として大きく貢献をしてきた今や文房具はOA機器にいたる迠その範疇を広げ四宝から至宝に至って戦後の日本国を世界の大国に復興せしめた教育の原動力となった11月3日(文化の日)を文具の日と定め平成2年(1990)11月12日天皇陛下御即位を記念して全国業者相寄り東宰府亀戸天満宮の境内に文房至宝の碑を建立する
 平成2年(1990)11月吉日 文具資料館

各地の天神さんに立てているようです。12月中旬ですが梅のつぼみも少し膨らみかけていました。

黒猫さんは止まってもらえませんでした。

境内には江東区文化財になっている石碑が多く立っています。八百万神碑 男谷静斎書(江東区登録文化財)

菅公一千年祭記念碑(江東区登録文化財)

歌川豊国翁之碑(江東区登録文化財)

菅原白竜画師献技碑(江東区登録文化財)

明楽斎修筆碑 明治29年在銘(江東区登録文化財)

累卵塔碑(江東区登録文化財)累卵とは、卵を積み重ねることで、くずれやすく、きわめて危険な状態をたとえていう言葉で、明治20年3月に、明治天皇の主治医を務めた千葉愛石が、天神様を崇敬するとともに人名の危うき事を示そうとして献納しました。

菅廟種梅碑 明治35年在銘(江東区登録文化財)

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