ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

愛宕神社(港区愛宕)江戸名所図会めぐり

2018年01月10日 22時01分27秒 | 江戸名所図会めぐり

東京タワーのところにある施設の衛生点検に伺いました。ちょっと離れていますが愛宕神社に寄ってみました。今回は参拝者も多く、時間もなかったのであまり写真も撮れませんでした。前回2013年10月28日撮ったものを追加して江戸名所図会めぐりとしてアップします。

★ランドマーク愛宕神社:1603年、慶長8年、江戸に幕府を設く徳川家康公の命により防火の神様として祀られました。
慶長15年、庚戊本社をはじめ、末社仁王門、坂下総門、別当所等将軍家の寄進により、建立されました。祭礼などには下附金を賜るほど、当時の幕府の尊崇は篤いものでした。
その後江戸大火災で全焼してしまいましたが、明治10年、9月に本殿、幣殿拝殿、社務所の再建がなりました。
大正12年9月1日、関東大震災に、昭和20年5月24日帝都大空襲により太郎坊神社を残し社殿は焼失しましたが、昭和33年9月、氏子中の寄付により、御本殿、幣殿、拝殿などが再建され、現在に至ります。(神社のHPより)

2013年の写真です。
【丹塗りの門】ほおずき市の時には、茅の輪が設置され、これをくぐると災いを避けられるということだそうです。

愛宕山:愛宕神社は、標高26メートルの愛宕山の山頂にあります。これは23区内で自然の地形としては一番高い山。春は桜、夏は鬱蒼と茂る樹木の涼と蝉時雨、秋は月と紅葉、冬は雪景色と四季折々の表情で、訪れる人の目を楽しませています。
オフィス街に位置することもあり、境内はお昼休み時は近隣で働く人々でにぎわいます。

2013年10月の時の写真です。

こちらは神社のPHの写真です

【出世の石段(男坂】曲垣平九郎の故事にちなみ「出世の石段」と呼ばれる急な石段です。

今回は上から撮りました。鳥居も赤く塗られています。

こんなものがありました。

★男坂と曲垣平九郎:現在でも「男坂」の急な石段は「出世の石段」と呼ばれている。これは、江戸時代の1634年2月25日(寛永11年1月28日)、徳川秀忠の三回忌として増上寺参拝の帰り、徳川家光が山上にある梅が咲いているのを見て、「梅の枝を馬で取ってくる者はいないか」と言ったところ、讃岐丸亀藩の家臣(曲垣平九郎)が見事馬で石段を駆け上がって枝を取ってくることに成功し、その者は馬術の名人として全国にその名を轟かせた、という逸話から来ている(講談や浪曲の定番、「寛永三馬術」で今も伝わる)。 

以降、出世の石段を馬で登った成功例は今までに3例存在する。1例目は仙台藩で馬術指南役を務め、廃藩後曲馬師をしていた石川清馬で、師の四戸三平が挑み、果たせなかった出世の石段登頂を1882年に自らが成功させ、これにより石川家は徳川慶喜より葵の紋の使用を許された。

 2例目は参謀本部馬丁の岩木利夫で、1925年11月8日、愛馬平形の引退記念として挑戦し、観衆が見守る中成功させた。上りは1分ほどで駆け上がったが、下りは45分を要した。この模様は山頂の東京放送局によって中継され(日本初の生中継とされる)、昭和天皇の耳にも入り、結局平形は陸軍騎兵学校の将校用乗馬として使われ続けることとなった。

 3例目は馬術のスタントマン、渡辺隆馬である。1982年、日本テレビの特別番組『史実に挑戦』において、安全網や命綱、保護帽などの安全策を施した上で32秒で登頂した。(ウイキペディアより)NHK放送博物館側

からの入り口です。

2013年の写真です。

江戸名所図会より

キャプション  宕山高く倚る勝軍宮/晴日登臨す積水の東/江樹千里闕下に連なり/海運一半城中に傍ふ/まさに憐れむ精衛なお水を含むことを/誰か識らん鵬鯤のたちまち風に撃つることを/羞殺す魚塩都会の地/世を治めて陶朱公に似ることなし 服元喬(服部南郭)

愛宕山総門 そのニ 京洛より移遷して武州に座す/壇を築き閣を構へ山丘に陟る/誰か知らん幣帛神封の物/ かへつて沙門活命の謀と作らんは 羅山子

 

正面の階段が男坂、右手の階段が女坂です。以上の3枚が続いて描かれています。キャプション この次ニ丁の図、愛宕本社に至るまで続画(つづきえ)なり。

キャプション

愛宕山円福寺毘沙門の使いは、毎歳正月三日に修行す。女坂の上愛宕おやといへる茗肆(みずちゃや)のあるじ、旧例にてこれを勤む。 この日寺主を始めと支院よりも出頭して、その次第により座を儲け、強飯(ごうはん)をき饗す。半ばに至る頃、この毘沙門の使ひと称する者、 麻上下を着し、長き太刀を佩(は)き、雷槌(すのりき)を差し添え、また大なる飯(いい)がいを杖に突き、初春の飾り物にて兜を造り、 これを冠る。相従ふるもの三人ともに本殿より男坂を下り、円福寺に入りてこの席に至り、俎板(まないた)によりて彳(たたず)み、 飯がいをもて三度魚板(まないた)をつきならして曰く、

「まかり出でたる者は、毘沙門天の御使ひ、院家役者をはじめ寺中の面々、長屋の所化ども、勝手の諸役人に至るまで、新参は九杯、 古参は七杯御飲みやれ御のみや。おのみやらんによっては、この杓子をもって御まねき申すが、返答はいかん」といふとき、この一臈(いちろう) たるもの答へて曰く、

「吉礼の通りみなたべふずるにて候へ」と云々。

「しからば毘沙門の使ひは罷り帰るで御座ある」といひて、本殿へ立ち帰る。

2013年10月の時、虎ノ門ヒルズはまだ工事中でした

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 帰郷・田舎の風景(古里は今も... | トップ | 自證院(自証院・新宿区富久町... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

江戸名所図会めぐり」カテゴリの最新記事