ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

木母寺・梅若塚(墨田区堤通)江戸名所図会めぐり

2017年07月19日 09時50分40秒 | 江戸名所図会めぐり

木母寺はリハビリ病院の近くにあるので何度も訪れていますが、タイタンビカスを見に行ったついて再度散策したので、江戸名所図会めぐりとしてまとめてみました。

★ランドマーク木母寺:木母寺は平安時代中期の貞元2年(977)天台宗の僧、忠円阿闍梨が梅若丸の供養のために建てられた念仏堂が起源で、梅若寺と名づけて開かれました。

当寺に今も伝わる梅若伝説は、平安時代、人買にさらわれて、この地で亡くなった梅若丸という子供と、その子を捜し求めて旅に出た母親にまつわる伝説があります。この伝説を元にして、後に、能の隅田川をはじめ歌舞伎、浄瑠璃、舞踊、謡曲、オペラなど、さまざまな作品が「隅田川物」として生まれていきました。この隅田川物を上演する際に、役者が梅若丸の供養と興行の成功ならびに役者自身の芸道の上達を祈念して「木母寺詣」を行ったことから、芸道上達のお寺として広く庶民の信仰を集めるようになりました。

毎年、4月15日は梅若丸の御命日として、梅若丸大念仏法要、古典芸能である「隅田川」の芸能奉納及び梅若忌芸能成満大護摩供を執行します。(木母寺のHPより)

江戸名所図会より隅田川東岸

手前が水神、真ん中が木母寺、奥に若宮八幡宮が見えます。

キャプション:木母寺に歌の会ありけりけふの月 其角

『回国雑記』 いにしへの 塚のすがたあはれさ いまのごとくにおぼえて  

古塚のかげ行く水の すみだ河 聞きわたりても ぬるる袖かな  道興准后

古地図

池波正太郎の剣客商売の秋山小兵衛とおはるが住んでいるのは古スミ田川を入ったところのようです。おはるの舟で浅草に出かけます。江戸名所図会3連でみると左手に古スミ田川が描かれています。錦絵では広重『江戸名所百景』[木母寺内川御前栽畑]

★梅若念仏堂:このお堂は、梅若丸の母、妙亀大明神が梅若丸の死を悼んで墓の傍らにお堂を建設したものであるといわれています。

四月一五日の梅若丸御命日として、梅若丸大念仏法要・謡曲「隅田川」・「梅若山王権現芸道上達護摩供を開催します。(木母寺HPより) 

建物の説明書きには、梅若堂(梅若塚拝殿)とあります。

 梅若塚の沿革:「たづねきて問はばこたえよ都鳥すみだ河原の露ときえぬと」の辞世で名高い梅若塚は中世からは能「隅田川」の文学的旧跡、また江戸時代には梅若山王権現として尊信されました。明治の世となり木母寺が廃寺の後は梅若神社と称されましたが同寺再興の翌年(明治25年)佛式に復帰しました。

現在地に遷座したのは昭和51年で、旧地は門前の団地住宅第9号棟の東面梅若公園内に存置、石標が立っています。

梅若塚の沿革:「たづねきて問はばこたえよ都鳥すみだ河原の露ときえぬと」の辞世で名高い梅若塚は中世からは能「隅田川」の文学的旧跡、また江戸時代には梅若山王権現として尊信されました。
明治の世となり木母寺が廃寺の後は梅若神社と称されましたが同寺再興の翌年(明治25年)佛式に復帰しました。
現在地に遷座したのは昭和51年で、旧地は門前の団地住宅第9号棟の東面梅若公園内に存置、石標が立っています。

白髭防災団地の前にある榎本武揚像の広場のあたりがもともと梅若塚があったところのようです。きれいに整備されていました。左手奥が梅若塚跡、建物もここにあったようです。右手の白いところに説明書きがありました。

★梅若伝説:京都の貴族の子である梅若丸が、人買にさらわれ、連れ回された後に、隅田川のほとりで亡くなりました。

そこに居合わせた高僧が、梅若丸の供養のために柳の木を植えて塚を築きました。梅若丸の死後1年が経ち、息子を捜し求めていた梅若丸の母親が、塚の前で念仏を唱えると、そこに梅若丸の亡霊が現れ、悲しみの対面を果たした。という伝説です。なお、伝説に登場する塚は、梅若塚として、現在、木母寺内に再現されています。

梅若塚

【梅若塚】能・歌舞伎・謡曲・浄瑠璃等の「隅田川」に登場する文化的旧跡です。 

貞元元年(976)梅若丸が亡くなった場所に、僧の忠円阿闍梨が墓石(塚)を築き、柳の木を植えて供養した塚です。江戸時代には梅若山王権現の霊地として信仰されていました。

本堂です。

木母寺のご本尊は、「慈恵大師良源」で、正月三日にご入滅されたことから、元日の元に、数字の三を取りまして「元三大師」と呼ばれています。元三大師は、霊験の強いことで知られ『角大師』或いは『厄除大師』として有名です。(木母寺のHPより) 

境内に諸碑があるというので散策しました。華笠文京翁碑

幕末に出た劇作家花笠文京(魯助)の数奇に富んだ生涯を述べた碑で、弟子である仮名垣魯文が建てました。天下之糸平の碑

高さ5m、幅3mを越す都内一の巨碑です。明治の初め、貿易で成功を収めた田中平八(通称天下の糸平)の石碑です。親交のあった政治家、伊藤博文の書です。

 

★ランドマーク天下之糸平の碑(墨田区登録文化財):「天下之糸平」とは、幕末から明治にかけて活躍した実業家田中平八のことです。平八は天保5年(1834)信濃国(長野県)の農家に生まれ、尊王志士として水戸天狗党の筑波山挙兵に参加しました。その後横浜の生糸売込問屋で働き、慶応元年(1865)に独立して「糸屋」と称し、生糸売込と洋銀売買で巨利を得ました。明治時代には金融・貿易関係で活躍しながら、伊藤博文を資金面で支援し、明治17年(1884)50歳で没しました。

 

 本碑碑石は仙台産粘板岩で、都内最大級の大きさです。正面の文字は伊藤博文筆で、碑石裏面には平八の生涯と事跡が刻まれています。建碑の理由としては、自己のために絶大な墓を造るようにという平八の遺言に沿い建てられたと考えられています。建立を手がけたのは三囲神社隣に仕事場を構えた石工・3代宮亀年で、本碑は彼の名声を大きく高めました。建立直後から本碑は評判となり錦絵などに多く描かれ、向島の観光的歴史性も示しています。(墨田区役所のHPより)

三遊塚

三遊亭円朝が先師初代円生追福のため、明治22年に建てた碑です。題字は山岡鉄舟。銘文は高橋泥舟の書です。

脇には浄瑠璃塚がありました。

亀田鵬斎の作ならびに書 「題隅田堤桜花」

 長堤十里白無痕  訝似澄江共月渾  飛蝶還迷三月雪  香風吹度水晶村

「長堤十里、白にして痕なし、訝しむ澄江の月と共に渾るに似たると。飛蝶還り迷う三月の雪。香風吹き度る水晶の村」と読みます。銘文は九歳の少年清水孝の書です。文政12年(1829年)建立。」

★ランドマーク亀田鵬斎「題隅田堤櫻花」の漢詩碑(墨田区登録文化財):本碑は、江戸時代後期の儒学者亀田鵬斎が文政3年(1820)に隅田村名主坂田氏に贈った漢詩を、石工窪世祥が懇請して制作したものです。墨堤の桜を称えた七言絶句の漢詩に続き、鵬斎の子亀田梓によりまとめられた詩の内容と石碑建立の経緯についての文章が、鵬斎の孫弟子清水孝の書で刻まれています。この詩は墨堤の風景を賞賛する象徴的な詩として、『江戸名所花暦』の挿絵にも掲載されています。

 建立当初は墨堤上にありましたが、明治30年代(1897~1906)までに木母寺旧境内に移され、木母寺の移転に伴い現在地に再移転されました。(墨田区役所HPより) 

身代わり地蔵尊

この地蔵尊は、木母寺が旧地にあった頃、門前に安置されて多くの人々から深い尊信を寄せられ、民衆守護の願いを聞き届けられた、ゆかりの深いお地蔵様です。そもそも地蔵菩薩は、常に六道(人間が転々とする六つの境涯)を巡り、人々の悩み苦しみを察し、身代わりとなって下さるという「代受苦の菩薩」としての信仰が古くからあります。つらいこと、苦しいこと、悲しいことが起こった時には、このお地蔵様に訴え、「身代わり」をお願いして、あなた自身は元気を取り戻してください。 

地蔵菩薩の御真言(お祈りするときの言葉・合掌して三たび唱える)オン・訶訶訶尾・娑魔曳・娑婆訶(オン・カカカビ・サマエイ・ソワカ)へび観音

東都俳風狂句元祖 川柳翁之碑

紀恩之碑 明治 4年建碑

 

長松幹撰文 巌谷修書 谷鐵臣隷額

華渓先生禿筆之蔵銘并序碑

 

文政三年(1820)の建碑

賛奎運碑

 

明治28年頃の建碑

 

山井先生神遊之表碑文化二年 ( 1805 ) の建碑

烏山勝忠成篆額、桂林縄惟直撰文并書丹、中慶雲刻

 

恆山先生武藝勒石記天保二年(1831)の建碑

 

綾瀬亀田梓撰文、杉山懿篆額并書丹、窪世祥鐫

その他にも歌碑や石碑が建っていますが調べ切れませんでした。

15年7月から9月と16年1月から3月と2回入院していた東京都リハビリテーション病院は空き地を挟んで隣同士となっています。

 

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1 コメント

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梅若伝説  (もののはじめのiina)
2022-03-21 11:34:22
「梅若伝説」にちなんだ妙亀塚(みょうきづか)が、浅草・今戸神社を北に進むとあります。

偶然に行き会わせたのですから、わかりにくいとは思います。
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