君津市の久留里駅前にある施設で、うたごえがあるというので友人の車で行き参加してきました。なかなか素晴らしい歌声で感激しました。
帰りがけに、周辺を散策しました。施設の前には名水を汲む小屋がありました。
★ランドマーク平成の名水百選「久留里の生きた水」:明治中期、上総地方で開発された「上総掘り用具」により、各地に自噴井戸が掘られ、人々の生活に無くてはならないものとして大切にされてきました。
久留里の井戸の水は、清澄・三石山系の山林に降った雨が天然の地層を通る事でろ過され、さらに地下水脈を通って湧き出てくるものです。それぞれの井戸からは、春夏秋冬、24時間、豊富な水がこんこんとわき出ており、地元の観光協会を中心に水質検査が行われ、安心安全な水として保全されています。
これらの井戸から湧き出る水は、水質の良さ、水に含まれている有用な成分、そして美味しいことから「久留里の生きた水」と呼ばれ、、県内各地から多くの人が水を汲みに訪れています。君津市の次世代に伝えたい20世紀遺産に指定されるとともに、平成20年6月には千葉県下で唯一「平成の名水百選」に選ばれています。
上総掘り用具
施設の前の道路から木フヨウの花が見えたので坂を下ってみました。
さらに坂を下ると正源寺というお寺さんがありました。
山門だけが孤立して残されています。道路側から見ています。
お寺さんの境内から撮っています。右手に新しい観音像が建っていました。
★ランドマーク正源寺:鎌倉時代の徳治2年(西暦1307年)時宗の高僧 他阿真教上人により、上総の念仏根本道場として創建されました。その道場は、厳しい生活を強いられた民衆にとってはこの世の極楽浄土さながらに、明るく楽しい踊り念仏であふれていたと伝えられます。
それまで、安万支(アマキ)の里と言われていた当地は、生き仏様が久しく留まられた里ということで、久留里(クルリ)と呼ばれるようになったということだそうです。
その後二百年ほどたった天文15年(西暦1546年)、久留里城を本城として房総半島に一大勢力を築いた戦国大名 里見義堯公にとりたてられて義堯公母君の菩提寺となりました。
その時当寺は、義堯公より260石の寄進を請け、母君の菩提の為にと阿弥陀如来を本尊として迎え、宗派を浄土宗に改めて、それまで特別の名称を持たなかった念仏道場を「福徳山 東陽院 正源寺」と号する、塔頭4軒末寺8寺を有し、朝な夕なの念仏の声は町はずれまで響き渡ると言われた大寺院へと変貌していったそうです。
栄枯盛衰は世の習い。徳川政権が終わりを告げ、新政権の下での明治時代になると、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、それとともに葵の御紋の権勢と後ろ盾を失った当寺は、塔頭末寺すべてが焼失あるいは荒れ果てて廃寺となっていきました。
本坊 東陽院も昔日の大伽藍は焼失し、今に残る当時の面影は、山門の一部と樹齢700年の大イチョウのみとなったとのことです。(正源寺HPより)
700年の大銀杏
本堂です。
加勢観世音菩薩の御堂です。
★観音堂:正源寺境内にあるこのお堂には、「加勢観世音菩薩」と呼ばれる観音様がご本尊として安置されたおります。
当山秘仏とされ、一年に一日だけ8月10日にご開帳されるほかは、厨子の扉を閉め、一般には拝観することは出来ません。
この観音像は、久留里城を本城として房総半島に勢力を振るった、小説「里見八犬伝」のお話で名高い、戦国大名 里見氏の戦勝祈願佛として、平時は久留里城の奥深くに、戦時は陣中に安置して日夜ご信仰なされていた、身の丈2尺(60cm)ほどの聖観世音菩薩です。 聖観世音菩薩(正源寺HPより)
こちらは慈母観音菩薩像です。
鐘楼で古びた感じがなかなか良かったです。
手水舎
六地蔵は沙汰らしくなっていました。
古い石碑も結構建っています。
無縁仏の碑
境内に咲いていました。