辻堂の南口にある施設を訪問しました。近くの神社を思っていましたが、そこまで行けずに戻ってきてしまい散策できませんでした。辻堂より熱海方面に行く電車の中から北口がどんどん開発される様子をみていたので、帰りに北口に行ってみました。細々とした南口に比べ膨大な開発の様子が見られました。
辻堂駅周辺開発の状況です。辻堂駅(藤沢市)はこれまで比較的地味な駅でした。駅北口は元々ここには関東特殊製鋼という会社の本社、工場があったのですが、それが2002年に撤退。その跡地を利用して、大規模な商業施設、総合病院、企業の研究施設住宅などが作られたのです。
湘南C-X(シークロス)と名づけられたエリアは駅北側だけで約25haほどもあり、用途別に大きく3つのゾーンに分けられています。そのうち、敷地中央の通りから東側と駅から離れたエリアにはオフィスや研究機関、法務局などがあり、駅近くは商業ビルとなっています。東海道本線です。
この開発は、平成17年に「藤沢2020計画」で示されたようです。
京橋にある施設を訪問しました。終了後近辺を散策しました。銀座線の京橋駅は明治屋に通じています。仕事を終えて通りに出るといきなり大きなビルです。
名称は東京スクエアガーデンというようです。銀座の通りにかかるところが京橋でした。
京橋の親柱
ひらがな
のもの
銀座のガス灯です。
橋のところにはこんなものもありました。
歌舞伎は, 1603(慶長8)年に 出雲阿国が 京都で“歌舞伎踊り”をしたのが始まり とされています。中村座の始祖、猿若勘三郎は歌舞伎の「猿若」で、天下の名優とうたわれ、元和8年(1622年)、江戸に下り、「猿若座」(中村座)の櫓をあげました。この地に太鼓櫓を許されたのは寛永元年(1624年)ですが江戸城に近いという理由で長谷川町へ移転、のち境町へ転じています。と中央区の説明がありました。
京橋と京橋川の説明図
6か月ぶりに内幸町の施設を訪問しました。昼食に4000食も提供する施設です。点検する方も緊張感があります。終わった後で目の前の日比谷公園に寄ってみました。ドイツビールの祭でした。
公園中にテント
このテントは7月下旬からずっと張ってあって、いろいろな催しがあったようです。
公園の自然をといったのにちょっと興ざめで、近くの花を撮ってきました。街路樹には百日紅が
赤い建物は日比谷公会堂です。
帰り道、日比谷通りと外堀通りが交差する西新橋交差点前の新日石石油跡地のビルは建設が進んでいました。地上22階・地下3階建てのオフィスビルになるそうです。
山形から秋田に向かうには仙山線周りで、仙台から新幹線「こまち」で向かうのと、鈍行を乗りついて奥羽本線を秋田に向かう二つがありますがネットでは、仙台周りを進めています。3年前は逆コースで秋田から新庄まで鈍行でそこから山形新幹線で山形に着きました。これも結構時間がかかりましたが、今回は山形発15時41分の新庄行きに乗り17時着、新庄から秋田行17時10分に乗り継いで大曲で遅れているこまちを待ったりして秋田に着いたのは20時40分ころでした。
翌日の施設訪問は午後からなので、午前中に近くの千秋公園を散策しました。
外堀の蓮千秋公園は久保田城の跡地です。
千秋公園は、秋田駅の北西約700mの場所にあり、慶長7年(1602年)、常陸から国替えとなった初代秋田藩主佐竹義宣が、翌8年に自然の台地を利用して築城した久保田城の城跡です。
明治2年(1869年)、版籍奉還により国へ返上され、陸軍省の所管となっていましたが、同23年、佐竹氏へ払い下げとなったことにより、本丸・二の丸を秋田市が借り受け、市民に開放しました。同29年、管理が県に移管され、造園家長岡安平の設計により、公園として整備されました。
昭和28年(1953年)、再び秋田市に管理が移管され、同59年、佐竹家宗家佐竹義榮氏の遺志により、公園用地(約14万6千㎡)として秋田市に寄贈され、名実ともに市民公園となりました。なお、本丸の一部(約5千㎡)については、国有地を無償でお借りしています。
千秋公園(当時は千秋園)の命名者は、秋田県出身の漢学者狩野良知で、「千秋」の由来は、秋田の「秋」に長久の意の「千」を冠し、長い繁栄を祈ったものといわれています。
平成20年3月25日千秋公園が文化財(記念物=名勝)に指定されました。昇って行くと
表門です。
中に佐竹義堯公銅像
があり後ろにはサルスベリが咲いていました。こちらは
八幡秋田神社
奥のもっとも高いところに御隅櫓中に入ってみました。日本海まで見渡せる高さです。
こちらは御物頭御番所です。久保田城内に唯一現存する藩政時代の役所建物であり、宝暦8年(1758)から安永7年(1778)の間に建築されたものと推定されています。
久保田城内のニノ門(長坂門)の開閉と城下の警備、火災消火を担当していた物頭(足軽の組頭)の詰所で、 秋田市指定文化財です。
こちらは大賀ハスの植えてある胡月池です。大賀ハスは、昭和26年(1951年)、ハス研究家の大賀一郎博士が地元中学生などの協力を得て、千葉県検見川の泥炭層下の青泥層から約2千年前のハスの種を発掘し、発芽に成功したハスです。
秋田市では、平成14年4月に、大賀ハスの品種保存に力を入れている蓮文化研究会理事長印南洋三氏の厚意により、蓮根を6株譲り受け、胡月池で栽培しています。残念ながら大賀ハスは咲いていませんでしたが、アメンボの大群がいました。
下の蓮池に降りてきたら池の中にアオサギらしきものがいましたが写真を撮る前に飛んで行ってしまいました。池には赤・白のハスが咲いてました。
山形と秋田に訪問しました。3年前は秋田から山形のコースでしたが、今回は山形から先に訪問しました。前回は周辺を見る余裕がありませんでしたが、今回は少し早めに東京を出て向かいました。山形駅には40年前に初めて降りましたが、当時とはまったく様変わりして、山交のバスターミナルに向かおうと思いましたが迷ううほどでした。本町にある施設を確認してから、霞城公園に向かいました。途中
豊烈神社というのがあったので寄ってみまあした。ここには水野元宣像
がありました。この人は、幕末に山形の街を兵火による焼失から救った山形市民の大恩人と称すべき方だそうです。
神社の由緒には:文政4年(1821)遠江国浜松城主・水野忠邦公が、藩祖・水野忠元公を城内に祀ったことに始まり、朝廷より豊烈霊神の称号を賜わりました。弘化5年(1848)には、忠邦公の子忠精公が出羽国山形移封により霞ヶ城二の丸内に遷座されました。明治3年5月 忠精公の子忠弘氏が近江国朝日山移封の際、山川(茨城県)に遷座されましたが、明治13年10月 旧山形藩士達は勤請して分社を現在地に造立し氏神としました。明治41年5月、旧香澄町各所に鎮座していた八阪神社、稲荷神社を合祀し、大正2年4月には山川の本社を此処に遷座し併合しました。大正10年12月には水野藩中興の祖・水野忠邦公の霊を合祀しました。
昭和30年10月 明治維新に際し山形市を兵火の災害から救った水野三郎右エ門元宣、また山形防衛戦で戦死した大久保伝平外22氏の霊を合祀しました。と書いてありました。拝殿
ここから裏に抜けて奥羽本線の通っているところに着きました。霞城公園に渡るのはと考えていたら目の前に、ひっそりと古い蕎麦屋さんがありました。ちょうど12時ころだったので入ってみました。先客が10人ほどいましたが、品の良いおばあさんが注文を取りに来ました。初めてだと言ったら「芋子煮そば」を進めてくれたのでお願いしました。結構有名らしくネットでは山形名物の芋煮とそばが一緒に味わえる芋煮そば900円は、里芋・牛肉・山の幸が入った味わい深いそば。などと紹介されています。おいしくいただきました。
店に付近の地図があったのでそれを見て公園に入り口に向かいました。二の丸東大手門から入りました。中には
またまた像が、最上義光の銅像です。
公園のベンチには大きなネコさんが死んだように寝ていました。
触っても起きる様子がありませんでした。
観光用に?次々と復原していますがここでは本丸一文字門の復原工事をしていました。
奥にしゃれた建物がありました。
済生館です。旧済生館病院本館で、1873年(明治6年)に私立病院として設立され、1878年9月に当時の県庁そばに本館が竣工しました。国の重要文化財となっています。
現在は山形市霞城公園内に移築され山形市郷土館として利用されているものです。
南大手門跡地から山形駅に方面に向かいました。