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ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

快気祝いの集い2016.9.3その1(最初の手術入院、リハビリ病院退院まで)

2016年09月04日 22時04分03秒 | 身辺出来事

入院中にお見舞いをいただいたり、お世話になった方に参加していただき、快気祝いの集いを開かせていただきました。会場は時々お邪魔している錦糸町のリトルインディアでした。

息子のバンド、東京ゴッドファーザーズのライブもあって会場を盛り上げてくれました。

家族もいろいろと手伝ってくれました。

 

私からは入院生活から退院、リハビリの状況をスライドにして説明させてもらいました。

最初は腰部脊柱管狭窄症ということで、腰部を背中から骨を削って脊柱管に迫り管を拡げて除圧する手術でした。

削った後はチタンで5個の腰椎をビス止めしました。

これで6月から9月まで入院とリハビリをしました。そして10月11月は職場復帰するまで回復したのですが、12月になり歩行困難反もちろん全く下半身が麻痺してしまい車椅子になってしまいました。

MRIで今度は胸椎にヘルニアがあるというので、胸椎も同じように削ってチタンで補強しました。全部で8つがチタンで固定されています。

手術は御茶ノ水の三楽病院で行いました。

手術するまでの入院生活は余裕があって、差し入れていただいた本を読んでいました。

病院での楽しみは食事です。幸い三楽病院の食事はうまいことで有名でした。

冷たいものは冷たく、暖かいものは暖かく提供してくれました。

手術後は窓ばかりをみていました。

手術をしたのは良かったのですが、歩行がままらなくなって、急いでリハビリ病院を紹介してもらい、まだ抜糸もままならないうちにリハビリ病院に転院しました。

車椅子の生活です。病院には杖で歩いて行けたのに、病院を出るときは車椅子というのは納得できませんでしたが、これ以上病状は悪くならないという医師の話を信じてリハビリを頑張りました。

リハビリ病院の食事は田舎料理的なものでした。

ちょっとおかずが足らなかったり、果物が少ないのでふりかけやバナナを差し入れしてもらいました。

リハビリ病院は車椅子が通れるようにベッド間とか広く取ってありました。

病院の写真を撮るために、車椅子で外に出たところ、坂を下ったのは良かったのですが、帰りに坂が登れなくなってしまいました。

たまたま、リハビリで病院の外を歩いていた患者さんに押してもらいどうにか病院に戻ることができました。

ここでもいろいろと差し入れしていただきました。

結構時間をつぶすことができまあした。

漢字のナンクロには結構はまりました。

窓の外の雀を撮ったりしました。

足立の花火も病室の窓から見えました。

テニスのパートナー船木さまに時々お見舞いに来ていただいたき、その時はリハビリを早めにやめて1Fの食堂で一緒に食べました。

いつも弁当ランチをおごってもらっていました。

あとは院内をウオーキングするときによく夕陽を撮っていました。

車椅子を卒業して歩行器や杖で歩くようになりました。

リハビリ病院は積極的に一時帰宅を進めているので土日はできるだけ自宅に戻るようにしました。病院ではなかなか食べられないステーキをよく食べに行きました。

いえかたパソコンを持ち込んで音楽を聴いていました。

8月15日には田舎のお盆にも出かけることができました。

「ふるさとの山は遠くにありて思うもの」などと歌いながら散歩しました。

病院は26℃に保たれていて居心地がいいのですが、自宅に戻ると真夏で、熱中症になりそうになりました。

布団からは起き上がれないのでベッドを急遽買いました。

9月には不忍池の音楽堂でのともしび大うたごえに病院から出かけました。

病院の食事はこれが最後と思い撮りました。9月18日の朝食です。

 

この4階からみていた防災団地の風景も最後と思って撮りました。

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こいのぼりと東京スカイツリー

2016年04月26日 23時02分18秒 | 身辺出来事

リハビリ病院に行く途中の東白髭公園でこいのぼりが飾り付けてありました。

病院に行く途中と帰り見てきました。ちょうど良い風が吹いてのびのびと泳いでいました。

池にも写ってにぎやかに泳いでいました。

 

病院の帰りも見て見ました。

スカイツリーとこいのぼりです。

隅田川沿いを吾妻橋まで来てみました。

墨田区役所の前にアサヒビールの本社ビルがありますが、そこにスカイツリーが映っていました。

吾妻橋の袂墨田区役所に向かう場所に鬼平情景の高札がありました。これで16本すべて撮ることができました。

東白髭公園の花々です。

白髭橋側からの入り口に門のようにバラがあります。

管理事務所のところに紫と黄色の草花が咲いていました。

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病院生活Ⅲ夕日と朝焼け

2016年02月14日 08時18分50秒 | 身辺出来事

今回は手術した病院での入院を合わせて2か月になろうとしています。リハビリ病院でも3週間が過ぎました。日曜日を除いて、毎日リハビリと、自主トレを続けています。自主トレの時間は朝食前の6時40分からと夕食前の4時40分からとおおよそ時間を決めて実施しています。そのため今は日の出日の入り時間と重なっています。残念ながら北側の病棟なので朝日を見ることはできませんが夕日は見えます。そんな風景を撮りながら自主トレしています。朝日は見えませんがアサヒに反射した富士山も時々見えます。朝日に照らされた隅田川の向こう岸の建物です。朝日に反射して黄金色に光って見えました。

夕陽は様々です。

沈む夕日をゆっくり見ていました。

これもまたこの時間だけでしか見られません。

室内なので残念ながら蛍光灯の光が反射してしまいます。

こちらはベッドの窓から団地に反射した夕日です。

自主トレが少し早かったので日の高い時間です。

休日は昼の自主トレで、その後のコーヒーブレイクです。

その他の空いている時間は本を読んだり池波正太郎にはまって、剣客商売から鬼平犯科帳を全巻買ってしまいました。

後は漢字パズルやタブレットでナンプレなどで時間を過ごしています。TVはBSも見られるのですがカードが600分1000円で少し高いのであまり見ません。

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一時帰宅・亀戸天神

2016年02月07日 13時36分38秒 | 身辺出来事

リハビリ病院から一時帰宅しました。車で送り迎えしてもらっていますが、帰宅の途中に亀戸天神に寄り道しました。梅まつりは2月13日からのようです。団地の掲示版に張ってありました。

ということで、

まだ梅は少ししか咲いていいませんでした。太鼓橋の手前に見える梅はまったく咲いていません。亀戸天神は家から最も近い神社なので、娘や孫の七五三の度にお参りしてきました。最近では昨年11月に孫娘の7歳のお祝いをしました。

亀戸天神のHPより「菅原道真公をお祀りする当社は下町の天神さまとして広く知れわたり、多くの方々に親しまれております。
古くはご本社にあたります九州太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」と称されておりましたが、明治6年に東京府社となってより亀戸神社と号し、昭和11年に現在の亀戸天神社と正称いたしました。

正保三年(1646)九州太宰府天満宮の神官でありました菅原大鳥居信祐公(道真公の末裔・亀戸天神社初代別当)は神のお告げにより、公ゆかりの飛び梅の枝で天神像を刻み、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもって、遠くは日光または盛岡などの諸国を巡り歩かれ 、そして江戸の本所亀戸村にたどり着かれ、村に元々ありました天神の小さなほこらにご神像をお祀りいたしました。

当時徳川幕府は、本所の町を、江戸の大半を焼き尽くした明暦大火の被害による復興開発事業の土地とさだめ、天神様を篤く信仰していた四代将軍家綱公はその鎮守の神様としてお祀りするように現在の社地を寄進されました。
そして、寛文二年(1662)10月25日に太宰府の社にならい、社殿、回廊、心字池、太鼓橋などを営み、以来約350年後の今日まで東国天満宮の宗社として崇敬されてまいりました。」と書かれています。

それでもいくつかの木で咲いていました。青軸梅も少し咲いています。

拝殿に続く道の脇にひときわ目立って咲いている木があります。

ちょうどこの梅の花とスカイツリーをコラボ撮ってみました。

拝殿正面の太鼓橋のところの梅はまだです。

西側にある紅梅澱のところの赤い梅は咲いています。

西側の梅林からのツリーです。

こちらは少し咲いています。

東側の出入り口のところでも少し枝垂れ梅が咲き始めました。

団地に帰って、号棟の周りを一回りしてから部屋に戻りましたが、号棟の前の花壇で水仙が咲いてました。

近くのレストランが3月で終了ということで、娘家族と長男と一緒に昼食を摂ってきました。

二本杖で、だいぶ歩けるようになり、ビールも少し飲みましたが美味しく飲むことができました。

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病院生活Ⅱ

2016年01月31日 13時44分47秒 | 身辺出来事

1月20日からリハビリ専門病院に転院しました。墨田区にある東京都リハビリテーション病院です。病院は6階建てですが、病棟は4階の北側になっています。

いつもいる病室から見える風景です。

病院は白髭防災拠点の中にあります。

墨田区によれば、白髭東地区は江東地区防災拠点の指定を受けている地域です。隅田川沿いにある東白髭公園は、大地震や火災が起きた際、避難広場となります。公園の東側には13階建ての高層住宅が並んでおり、公園と住宅、その他病院等をあわせた区域一体は江東デルタ地帯の防災拠点となっています。

となっており病院とはリハビリテーション病院のことです。

さらに、都営白髭団地は住宅でありながら、高度な消化設備を持った施設です。この施設は延焼遮断帯としての働きをすると同時に、非難場所を提供しています。

大災害時には、白髭団地東側に広がる住宅密集地で起きた火災を白髭団地西側にある避難活動場所へ延焼させないため、白髭団地は10棟すべてが横につなぎ合わされており、
これによって防災壁が形成されています。



このようにつなぎ合わさっています。

病院と団地の間は

緑の空間があります。

いつも見ている団地は、白髭まし方面から見て連続した最後の棟になっています。

病院では午前と午後の理学療法士さんとのリハビリと空いている時間は自主トレをしています。朝、夕と4階病棟1周125mを周回しています。自主トレでは、4階食堂の窓越しに見える風景を楽しみしています。天気の良い時は富士山が少し見えます。ちょうど午後の自主トレが夕日が沈む時間帯と重なっています。こちらは、ちょうど沈む瞬間です。

朝は朝焼け

十六夜の月が残っていました。

病棟の本棚に池波正太郎の本がおいてありました。全く読んだことがありませんでしたが、初めて鬼平犯科帳を読んでみました。結構面白かったのでまた借りて見ました。

 池波 正太郎は、「大正12年(1923)、東京・浅草生まれ。下谷・西町小学校を卒業後、株式仲買店に勤める。戦後、下谷区役所に勤務して長谷川伸の門下に入り新国劇の脚 本を書いて演出の腕も磨く。昭和35年(1960)、「錯乱」で直木賞を受賞。52年(1977)、吉川英治文学賞受賞。「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕 掛人・藤枝梅安」の三大シリーズが人気絶頂のさなか、急性白血病で逝去する」と紹介されています。

私が昭和45年に都庁に入った最初の職場が下谷保健所でした。そこの事務方おば様から池波正太郎と同じ職場だったと、よく聞かされていたことを思い出します。

鬼平犯科帳にも登場する木母寺は病院のすぐ近くです。リハビリのスロープを上がったところから撮ってみました。中央の塔が見える建物が木母寺です。

ウイキペデイアによれば「この寺は寺伝によれば、976年忠円という僧が、京都から人買いによって連れてこられてこの地で没した梅若丸を弔って塚(梅若塚:現在の墨田区堤通2-6)をつくり、その傍らに建てられた墨田院梅若寺に始まると伝えられる。1590年(天正18年)に、徳川家康より梅若丸と塚の脇に植えられた柳にちなんだ「梅柳山」の山号が与えられ、江戸時代に入った1607年(慶長12年)、近衛信尹によって、梅の字の偏と旁を分けた現在の寺号に改められたと伝えられており、江戸幕府からは朱印状が与えられた。明治に入ると、神仏分離に伴う廃仏毀釈によりいったん廃寺となったが、1888年(明治21年)に再興された。その後白鬚防災団地が建設されるにあたり、現在の場所に移転した。」となっています。

名所江戸百景より「木母寺内川御前栽畑」。内川と呼ばれる水路で隅田川とつながっていた。

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