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ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

亀戸事件追悼会(赤門浄心寺)

2017年09月03日 22時18分28秒 | 身辺出来事

亀戸に1975年から住んでいますが、亀戸事件の追悼会に初めて参加しました。

場所は衛生点検でお邪魔している工場の隣にある赤門浄心寺です。

浄心寺には亀戸事件犠牲者の碑が建てられています。

(碑裏)1923年(大正12年)9月1日関東一帯を襲った大震災の混乱に乗して天皇制警察国家権力は特高警察の手によって被災者救護に献身していた南葛飾の革命的労働者9名を逮捕、亀戸署に監禁し戒厳司令部直轄軍隊に命じて虐殺した。惨殺の日時場所ならびに遺骸の所在は今なお不明である。労働者の勝利を確信しつつ権力の蛮行に斃れた表記革命戦士が心血をそそいで解放の旗をひるがえしたこの地に建碑して犠牲者の南葛魂を永遠に記念する。

  1970年9月4日  亀戸虐殺事件建碑実行委員会

 碑裏の下部には

犠牲者之碑誌

 この犠牲者之碑を建立して23年の歳月を経た。この間研究の努力によって、中筋宇八 24も亀戸事件の犠牲者であることが立証された。当実行委員会は事件70周年記念事業のひとつとして、このことを確認し、碑にとどめる。なお、碑の改修にあたり、碑文等一部を書き改めたことを付記する。             1993年9月5日   亀戸事件追悼会実行委員会 

碑の正面の下のところには

犠牲者氏名年令  川合義虎 22 加藤高春 27 北島吉蔵 20 近藤慶造 20 佐藤欣司 22 鈴木直一 24 平澤計七 34 山岸実司 20 吉村光治 24

と書かれています。

関東大震災 亀戸事件しおりには

  1923(大正12)年9月1日、関東大震災が発生し、その混乱の中で天皇制政府は「朝鮮人、社会主義者が井戸に毒を投げ入れた」とか「暴動をおこしている」とデマ宣伝し、軍隊や警察、そしてこのデマに惑わされた「自警団」などが6千名以上の在日朝鮮人や中国人を虐殺し、無政府主義者の大杉栄夫妻と6歳の甥も憲兵隊によって殺害された。南葛地域(現、江東、墨田区)では、軍隊が、被災者救援のため活動をしていた川合義虎(日本共産青年同盟委員長)をはじめ労働組合の幹部など10名を虐殺した。これが亀戸事件である。この事件は「日本の労働運動の発祥地、拠点であった亀戸で、その革命的精神を双葉のうちにつみとろうとした、近代史上、比類をみない残虐な事件」であり、「隠された権力犯罪」(「亀戸事件」加藤文三著)である。亀戸事件犠牲者追悼実行委員会は、亀戸事件の真相と責任を追及し、1970年には、江東区亀戸にある赤門浄心寺に多くの団体、個人の協力を得て、「亀戸事件犠牲者の碑」を建て、毎年9月の第1日曜日に追悼会や学習会、現地調査などを行っている。

手すりのない階段あので中には入らず石仏像と一緒に並んで石に座っていました。石仏には宝永8年(1711)とあります。後ろには立派なヤツデの葉がありました。ずっと石に座っているのも体へだったので途中で境内を撮って歩きました。入り口に左に立っている六地蔵尊です。右側には有形民俗文化財の地蔵供養塔 念仏講在銘はどちらでしょうか。

黒猫さんがこちらを見ていました。浄土宗なので南無阿弥陀仏です。

★ランドマーク浄心寺:浄心寺は『新編武蔵風土記稿』巻之二四によれば、この寺の創立は元和元年(一六一五)で、開山鑑蓮社吟誉至山不通は寛永五年(一六二八)に亡くなったという。『浄心寺誌』によれば、江戸初期に正二位権大納言烏丸光広卿が江戸に下ったおり、鷹狩りに遊び、宝燈庵と称していたころの浄心寺に立ち寄り、不通和尚の法話に耳を傾け、その姿に心服した光広卿は朱塗りの門と、自家の菊花紋を浄心寺に与え、赤門寺と呼ばれるようになった。寺では慶長八年(一六〇三)のことと推測している。(「江東区の民俗城東編」より)

当日の様子を同じく参加していた原純子さんのfacebookより写真をお借りしました。

 亀戸は江戸時代から亀戸天神社をはじめ多くの社寺仏閣があったところです。江戸時代の古地図です。

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7月の終わり隅田川花火と公園の花

2017年07月30日 17時53分47秒 | 身辺出来事

7月最終の土曜日は隅田川花火大会です。今年は40年目でした。40年前は地元墨田区で食品衛生監視員の仕事をしていたので、花火大会に出店する屋台の監視をどうするのか苦労しました。屋台は縁日、祭礼に限って出店できるので、花火大会は祭礼に入るのかどうかから検討し、都などとも相談して祭礼として出店を認めることになりました。ただし出店場所が広範になる、どこに出店するかわからいこともあり事前の調査やら当日朝からの調査で確認するというような体制を整えました。道路は道路交通法で警察の管轄になりますが、警察は道路上にはいっさい出店を認めないことにしていましたので、出店できるのは道路に面した私有地に限定されました。

午前中から出勤して、道路が通行止めになる前に全ての屋台を回って許可書の有無、取扱い状況を確認したことを思い出します。通行止めになり花火が終了するまでは保健所での待機となりました。幸い保健所が第二会場の近くだったので花火を見ながらの待機となりました。わたしは30年弱でしたが特に大きな事故もなく過ごすことができました。

退職後は自転車であちこち花火の見えるところをうろついて見ていましたが、今年は雨だったので、自宅の窓を開け音を聞きながらTVを見ていました。最後の花火はさすがにすごかったですね。

昼はリハビリウォーキングで猿江公園の花を撮りました。

昨年おぼえたパラガイオオオニバスの花が咲き始めました。

宵闇が迫る頃良い香りを出して開花します。ミニ木倉にいくと漂ってきます。

夜の写真も撮りたいと思います。

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夏越大祓(烏森神社)と公園の花々

2017年06月28日 10時41分11秒 | 身辺出来事

6月27日は手術した病院に3ケ月ごとにいく診察の日でした。最初の手術から丸2年過ぎたことになります。順調というか、チタンで止めたものが外れずにしっかり固定されているかどうかを、毎回X線写真で撮ります。特にずれてはいないとのことで、後はどれだけ回復するかにかかっています。3か月分の薬はリックにいっぱいになります。リックを背負って新橋の内幸町の近くにある前の会社を訪れました。後任の方と懇談しながら昼食を摂って帰りました。

帰りは新橋駅まで歩き、途中で烏森神社に寄ってみました。新橋駅の烏森口を出て、神社の前の通りを会社に通っていました。

6年間通った道ですが久しぶりでした。夏越大祓、茅の輪が飾られていました。

くぐるのは拝殿の中にある茅の輪です。

★ランドマーク烏森神社:天慶3年(940年)、平将門が乱を起こした時、鎮守府将軍藤原秀郷(俵藤太)が武蔵国のある稲荷神社に戦勝を祈願したところ、白狐が現れて白羽の矢を秀郷に与えた。その矢によって速やかに乱を鎮めることができたので、それに感謝してどこかに稲荷神社を創建しようと考えていた所、秀郷の夢に白狐が現れ、神鳥が群がる場所が霊地であるとお告げした。秀郷が現在地である桜田村の森に来た所、お告げの通り烏が群がっていたので、そこに神社を創建したのが当社の始まりであるという。江戸時代の稲荷ブームの際には、初午の稲荷祭の賑わいは 江戸で一二を争うものであった。ということです。 

★茅の輪くぐりの意味:茅の輪くぐりは、正月から半年間のケガレを祓い、残り半年の無病息災を祈願するという意味があります。茅の輪をくぐることで禊(みそぎ)をして邪悪な穢れ(けがれ)を祓い(はらい)、災難を予防する為のものです。

基本的に6月30日に行われ、夏越の祓(なごしのはらえ)と言われています。特にこの梅雨の時期から夏にかけては、天然痘などの疫病がはやることが多かったようです。そういった疫病除けに茅の輪が有効と考えられていたようです。

基本は、6月末から7月中ですが、年末にも行われるのが通例です。6月の大祓のことを、夏越の祓(なごしのはらえ)と呼んだり、12月の大祓のことを、年越の祓(としこしのはらえ)と呼んでいます。ひっきりなしに参拝していました。

 

リハビリウォーキングしている公園にはアガパンサスが満開になっています。

友人がアガパンサスについて教えてくれました。ギリシャ語でアガペは愛、アントスは花で愛の花という意味だそうです。南アフリカ原産で現地では雑草のように生い茂っているそうです。

長く楽しませてくれているのがアジサイ

ノウゼンカズラです。

小さいものと大きいものがあります。

雨に濡れて落ちていたので比べてみました。

公園の植栽の方々が次々と花を咲かせてくれます。

ミニ木倉にはハスの花が咲き始めました。ハスは汚れた池に清純な花という感じがあります。雨のあとでハスの葉に水滴が乗っていました。

ところで夏というと一昔前は食中毒が大変でした。

週刊朝日から取材を受けた記事が掲載されました。

昔ながらのおにぎりと黄色ブドウ球菌の話でした。

 

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3.11東日本大震災被災者支援 7回忌法要 大うたごえ喫茶

2017年03月11日 23時21分27秒 | 身辺出来事

6回目の3.11を迎えて、松戸市で行われた「3.11東日本大震災被災者支援 7回忌法要 大うたごえ喫茶」に参加してきました。東日本大震災復興支援 松戸・東北交流プロジェクト通称「黄色いハンカチ}の代表の古宮保子様(中央)との関係で参加しました。

うたごえが始まる前に降りていた幕の絵が気になり撮ってきました。奥に松戸の宿と書いてあります。こちら側が金町宿のようです。江戸川に架かる舟橋のようなので家で調べてみました。これは江戸川の金町宿と松戸宿にかけた舟橋だそうです。

ほとんど記事がありませんでしたが、江戸時代の舟橋・浮橋について書いたものがひとつ見つかりました。それによると、江戸時代将軍が小金原中野牧(現在の松戸市牧の原)に鹿狩り行く時に江戸川を渡るのでわざわざ作らせたようです。八代将軍吉宗2回(1725年と1726年)と家斉(1795年)、家慶(1849年)が各1回の計4回作ったようです。

狩りに従事する旗本など15,000人から23,000人を同行し、鹿を追い立てるために農民が1日6~7万人も動員されたようです。最後には鹿がいなくなって他から購入して放牧したそうです。橋は1回2週間ほど架けられるので川の運搬が出来なくなったようです。銚子から利根川を経て江戸川を通って江戸に荷物を運ぶ重要な川だったので影響があったようです。

うたごえの進行は新宿ともしびと松戸うたごえで進められました。アコーディオンとピアノはともしびのメンバーですがそれ以外はすべて松戸の人たちです。

第三部の途中2時46分に黙祷し、松戸仏教会の方々と東日本大震災物故者七回忌追悼法要が執り行われました。

全員で般若心経を読経しました。最後にもう一度うたごえをして散会となりました。

追悼するということで歌に気持ち入って、思いがこもってこみあげて歌えない場面もありました。久しぶりに感激のうたごえでした。

 

 

 

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快気祝いの集い2(1度目のリハビリから2度目の入院まで)

2016年09月06日 20時24分38秒 | 身辺出来事

快気祝いの集いには、親戚からは唯一姪の尚美ちゃんが来てくれました。兄弟たちも田舎から来たいと言っていたのですが、狭くて東京のメンバーでいっぱいということでお断りさせてもらいました。ということで唯一横浜の尚美ちゃんに来てもらいました。

前回いからの続きでは、手術・リハビリ病院の入院と外来でリハビリをして結構回復しました。理学療法士の先生がテニスが趣味ということで、リハビリを兼ねて柔らかいボール(8歳以下の公認ボール)で壁打ちをしていました。

理学療法士の先生です。

自転車には乗れるので、公園まで行って中を散策するということでリハビリをしていました。

近くに猿江公園がありここがあまり人もいないのでリハビリで歩くのにちょうど良い場所でした。でも1回目の時はあまり歩かず自転車で回るだけでした。

花を見つけると降りて写真を撮りに行きました・ホウセンカと酔芙蓉です。

彼岸花がちょうど咲いていまました。

リハビリ病院では午前と午後リハビリがありその都度20分ほど自転車こぎをしていました。20分漕ぐと5㎞位になったので、外来で自宅から病院まで5km弱だったので自転車で通っていました。

おかげさまでいつもリハビリの時に病院から眺めていた近くの木母寺にも入れることになりました。

木母寺の所から見たリハビリ病院です。逆に眺めてみました。

毎週のように見舞いに来てくれたテニスのパートナーの船木さんたちと、快気祝いということで浅草の飯田屋にドジョウを鍋を食べに行きました。ネギをたくさん載せていただきました。

御茶ノ水の三楽病院に行くのは階段が大変なので、水道橋まで出て、タクシーで通いました。水道橋の所からみた後楽園遊園地です。

手術の時に作ったコルセットも外して良いことになりました。

向島百花園やら木場公園にも自転車で行ってみました。

 

清澄庭園などにも行きました。

市川塩浜にあるエーススポーツのテニスコートまでは片道10kmほどありますが、テニスの応援にも行くことが出来ました。

11月には孫娘の七五三は亀戸天神で行いました。

リハビリ病院に行く途中で見かけた花が猿江公園にもあり、調べてみたら皇帝ダリアと書いてありました。

船橋のうたごえゴリはJRの船橋駅から少し離れているのですが、リハビリ思って歩いて通いました。11月中旬には仕事で大阪出張もできるようになりました。大阪市内の街並みです。

亀戸中央公園も紅葉しています。

このまま回復してくれることを願っていましたが、12月になり急に左足が前に出なくなり、急激に下半身に力が入らなくなり、歩くのが困難になり、再び入院。手術ということになってしまいました。

 二度目の手術も成功しましたが、ダメージが大きくリハビリに前回以上に時間がかかることになりました。一回目の手術で終わってくれたらテニスにも復活でたのにと残念でなりません。

 

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