宿に入って、一眠りした。
おれも、だいぶ能登の空気に慣れたようだ。
能都で生まれ、七尾で育った人間が言うことではないが、懐かしさよりも緊張を強いられる旅だったから、いまになって、ほっとした気持ちになれたのかもしれなかった。
夕食に呼ばれるまで、一時間ほどの昼寝で、体にべったりと張り付いていた疲れが取れた。頭の中の霧状のふわふわしたものも、鼻や口から寝息とともに出ていったようだ。おれは、階下の食堂に降りていって、他の客と一緒に宿の女将のもてなしを受けた。
能登の魚は旨い。
まぐろ、甘鯛、真アジの刺身の他に、キスの天ぷら、サザエのつぼ焼き、イカの煮つけが出た。
シーズン真っ盛りなのに、値段の設定は良心的だ。はったりを言えない能登気質が、何よりの宝だった。
『恋路火祭り』は、ポスターには午後二時からのスタートと記されている。ゆかりの神にまつわる神事が執り行われ、その後、キリコが一基町内を一周し、神輿が回る辻祭りに入っていくとのことだった。
年に一回の祭りには、県外に出た息子や娘も帰ってくる。親戚友人も招待を受けて町内に集う。いわば第一部というべき催しの様子は、伝統の継承と、内輪な語らいを重視しているように思われた。
一方、恋路海岸には、早くから若い観光客が繰り出し、この地に残る悲恋伝説のシチュエーションにわが身を置いて、感傷に浸っている。
「鍋乃も助三郎も、カワイソウ・・」
銅像の足に触りながら、女の子が呟く。
この地に来て、詳しく知った悲恋の顛末が、一途な男女への同情を呼んで、女性の感情を掻きまわすのだ。
男の子は、連れのことばに相槌を打ちながら、案外別のところに思いを馳せていそうな気がする。
嫉妬ゆえに、逢瀬の目印である篝火を深みへ移動して助三郎を溺死させた源次に、ひそかな共感を抱いたりしているのではないか。
おれの心にある邪心が、こうした場面でふと頭を擡げるのだろうか。
妄動を悔い、生涯かけて過ちを償う源次の祈りが、恋路火祭りの本意と知りながら、意地悪く茶々を入れて揶揄してみたい気持ちが疼いていた。
夕暮れ近くなると、火祭りのメイン会場となる弁天島周辺が、賑わいの中心となる。クライマックスを最もよく眺められる場所を求めて、浜のあちこちに人が集まってくるのだ。
おれも、やっと重い腰を上げて、宿を出た。
赤崎海岸や、九十九湾を廻ってきたのだろう、風光明媚な内浦の景観をしゃべりあう泊り客の声も聞こえ、まもなく始まる夜の祭りに、さらなる期待を寄せる息遣いが伝わってきた。
「女将の話では、去年、町の無形文化財に指定されたらしいぜ」
夜九時を過ぎたころ、一発の花火を合図に、内浦町挙げてのイベント『恋路火祭り』が始まる。
出家して、諸国修行のすえ、当地の無住の観音堂に住み着き、若い男女の仲を取り持ったと伝えられる源次にちなんで、大小ニ基のキリコが勢いよく観音坂を下ってくる。
待ちかねたように、弁天島の岩場から打ち上げられた花火が夜空を駆け登る。
明々と海面に映る菊花や流星に合わせて、かねて用意の仕掛け花火にも点火され、それら火薬と油火の饗宴の中、若者たちに担がれたキリコが、威勢のよい掛け声に揺れながら、海中を練り歩く。
満を持して火を放たれた弁天島の大松明が、夜空を焦がし、海を赤く染める。恋の象徴でもある赤い鳥居も、着飾った女のように見つめられて、恥ずかしそうに朱に染まる。
昔ながらの蝋燭に映し出される幻想的な切子燈籠。担ぎ手の動きのままに揺れる大小二基のキリコの周囲には、祭り加勢の若者たちが付き従い、竹竿につけた小松明を振り回して、闇をキャンバスに火の輪を描く。
打ち上げ花火が、これでもかと弾け、あたりは日没の太陽を呼び戻したかのように、残照の海となる。
おれは、想像以上に華麗な火祭りに、声を失っていた。
恋路の浜をすっぽりと覆う空と海。それら人と神のあわいを染めて、火影が揺らめく。
闇に滲む火の濃淡が美しい。
中心の金色から、だいだい色、ベンガラ色へと変化し、やがて赤黒く融けて闇に吸収される。
火炎の粒子が、いつもと違う夜の臭いを観衆の頭上に漂わせる。
うっとりとした表情で、肩を寄せ、手を握り合うカップルが自然の様子に見える。岩場の方から長々と伸びてくる担ぎ手の影が、おれに人恋しさを募らせた。
(能登の祭りは、罪作りだ・・)
おれは、しばらく放心したように火と海と人の影を見つめていた。
この火祭りに翻弄されたら、人間の理性などひとたまりもない。おれの周りを眺めてみても、誰も彼も紙一重で生きているのだから。
生きていけなかった者たちも、また紙一重だったのだ。
釈然としなかった父母への思いが、火によって浄化されていた。
人も獣も分け隔てない生を受け、本性のままに時を刻んでいく。須須神社の森に暮らす鳥や小動物も、太古の神と何の違いもない。
白山神社の狸も、狛犬も、ご神木を敬う村人も、神主も、根源に立ち返ってみれば何ひとつ異なるところはないではないか。
森羅万象、透き通ってここにある。
能登は、松林も椿の杜も等しく受け入れて、大地を形作ってきた。海の道によって、忍耐と情熱の気風も育んできた。いま、陸路を経て、新たな風が縦横に往来する。
この地に生を享け、この地に育てられたおれは、能登そのものだと粋がった。
臆することなく、地に即し、生き物の命のままに、摂理に倣っていこうと心を定めた。
「もしもし、ぼく明日、東京に戻ります」
おれは、祭りが終わった十時半すぎに、ミナコさんに電話をかけた。人恋しさに、堪らず声を聞きたくなったのだ。
「あら、あなた用事は全部済んだの?」
「はい、叔父にも会ったし、坊さんに供養もしてもらいました。・・ぼくが生まれた場所も確かめました。詳しいことは、帰って話します」
その時のやり取りで、アパートに到着するおおよその時刻も伝えておいた。
東京の風は、油分を含んだようにべたついた。一瞬ひるんだのは、能登慣れしすぎたせいだろうか。
おれは、どこにも寄り道せず、中野のアパートに直行した。
暑さと長旅に疲れていて、一刻も早く寛ぎたい気持ちもあったが、何よりもミナコさんの顔を見たいとの衝動が、おれを急かしたのだ。
「ただいま。・・いま、帰りました」
ドアの前に立って、チャイムを鳴らした。
中からは、何の応答もなかった。部屋番号を確かめ、今度はノックした。金属音が虚しくひびいた。
(なぜ?)
連絡しておいたのに・・。詰る気持ちが、胸苦しさを呼んだ。
旅行鞄をドアと膝の間に挟んで、部屋のカギを探した。鍵穴に差し込んだものの指先から力が失せ、腕まで萎えてしまったような頼りなさを覚えた。
部屋に入ると、手前の六畳間には灯りが点いていた。
つい今しがたまで、人が居た気配がした。
恐れは消えなかったが、期待も湧いた。ちょっとした用事で、近くの商店にでも走ったのかもしれないと考えた。
五分ほど経って、電話のベルが鳴った。
はじかれたように受話器をとると、ミナコさんだった。
「わたし、駅。やっぱり、行き違いになってしまったようね」
すぐに戻るからと言って、電話が切れた。
ミナコさんは、買物袋を提げていた。いろいろな食料に混じって、ワインのビンが突き出ていた。
「ごめんなさい。迎えにいったのに、お買物に手間取ってしまって・・」
おれは、腰が抜けたように、椅子から立てなかった。電話を引いてあるからよかったものの、これからも気の休まらない日々が続くのだろうと、恨めしげにミナコさんを見た。
(続く)
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