〈ウェブ画像〉より
1945年の夏 8月15日の午前11時ごろ
ぼくらは防空壕を出て庄屋の家へ向かった
正午から玉音放送があるので集まるようにと
班長からの指示があったからだ
座敷には一台のラヂオが置かれ
ぼくらは縁側越しにそれを見守った
ぼくは大人たちの姿を目の端にとらえながら
庭に咲く数本のヒマワリを見ていた
強烈な日差しのもとヒマワリの花が黒く見えた
まるでハレーションを起こしているみたいだった
正午になりラヂオから天皇陛下の声が流れ始めた
「堪え難きを堪え 忍び難きを忍び・・」
大人たちが首をうなだれ 中には泣く者もいた
こうして79年前の8月15日は終わった
そのあとどう行動したのかは覚えていない
たぶんまた防空壕に戻った気がする
戦争が終わったことを米軍が知らずに
B29が爆弾を落とすかもしれないからだ
数日して米軍の撒いたチラシや近所のうわさで
本当に戦争が終わったことを知った
動員され軍需工場で働いていた長兄も家に帰され
終戦が本物だったことを確認できた
しかし食糧不足との闘いはその頃から激化した
芋粥やかぼちゃ粥なら御の字で大根飯が苦手だった
翌年には新しい教科書をもらって小学校入学
先生も女性の担任で大野先生・・忘れもしない
いきなり同級のジャイアンと喧嘩して泣かした
もみ合いとなりシャツをつかんだら破れてTKO勝ち
中学校では音楽専任の先生に怒られた思い出も
終戦後の学校生活は貧しくても楽しかった
玉音放送から79年も過ぎたのか
病気をしながらもよく生きてきたなあ
時あたかもパリ・オリンピック
水泳1500メートルの古橋・橋爪のデッドヒート
アメリカの二世選手 紺野もよく頑張った
パリ五輪で金メダル20個なんて隔世の感
きりがないのでこの辺で終わりにしよう
10年後にまた挨拶出来たらうれしいね
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