母親が亡くなったことで、ミナコさんの立場は弱くなった。
それは、当然なことだと、おれは冷静に考えた。姉夫婦の親切の一部は、母親からの送金にあったのだろうと、邪な想いが頭の中で泥のように動いた。
口には出さないが、ミナコさんは早晩横浜を離れることになると、おれも思っていた。幾部屋あるのか分からないが、夫婦のもとで長期に居候することなど、出来るはずはない。そのことは、ミナコさん自身が承知していて、手紙の中でほのめかしていたことだった。
「ミナコさん、これからは、ぼくが身元引受人になります。なんなら、ぼくがお姉さんたちにお会いして、了解していただきます。そうしたら、その足で、区役所に婚姻届を出しに行きましょうよ」
おれは、紅茶のカップを置いた瞬間のミナコさんを、真正面から見つめた。
「うーん、執行猶予なしに?」
ミナコさんは、おどけたように、おれを見た。「・・だけど、キミ、わたしが手に負えない女だったら、どうするの」
たまに,予想外の角度から球を投げ込んでくることがある。
きょうのミナコさんが、それだった。抑えきれない感情の頂点にいるように見えて、妙に覚めた言動をすることがあった。
挑発を受けたおれも、いつしかミナコさんに同調していた。
「そのときは、ぼくも手に負えない男になるだけさ。こう見えたって、素質がないわけじゃないんだから・・」
たくさんのカップルやグループの会話が飛び交う中で、おれたちのキャッチボールも軽快に取り交わされているように見えたはずだ。
「わたし、七時までには帰るといって出てきたんだけど・・」
ミナコさんが、唇を緩ませた。
おれは、ほんの少しひび割れたミナコさんの受け口を、まじまじと見つめた。ルージュは、意図的に避けているのだろう。透明に近い材質の口紅が、濡れたような光沢で唇をコーティングしていた。
「行こうか」
おれは先に立って、レジで支払いを済ませた。
ホールを出ると、上野の秋がいま真っ盛りであった。向かいの国立西洋美術館や国立科学博物館を囲繞する樹木だけではなく、さまざまな絵画展を案内するポスターまでが、秋色のタッチで掲示板にひしめいていた。
(芸術の秋か・・)
おれは、森に溢れる陽光のきらめきに、目を細めた。奥まったところにある動物園や、東京都美術館方向へ急ぐ人びとに逆行しながら、おれは眩しい想いを抱いて公園口の前の坂道を下り始めた。
人がやっとすれ違える歩道である。西郷さんが立つ上野の山に沿いながら、下りきったところはもう盛り場だった。狭い間口の映画館から、腕を組んだアベックが出てきた。近在の若者らしい雰囲気が、おずおずした目つきから感じられた。おんなの方は、他のものを見ようともせず、ひたすら男の腕に縋りついていた。
おれは、後ろを振り返った。間近にミナコさんがいた。
立ち止まったおれに、体をぶつけるようにして、腕を通してきた。
上野広小路とは反対方向へ曲がり、池之端の信号を左に折れた。途中、水上音楽堂前に、それらしい建物があったが、さすがに気恥ずかしくて通り過ぎてきた。
春日通りを突っ切って、湯島天満宮の裏手に回り込む。おれもミナコさんも、この辺りの地理には不案内だったが、いつの間にか格好のホテルに滑り込んでいた。
部屋は安普請だったが、ともかく白日の下から逃れられてホッとしていた。縺れ合うように歩く二人連れの行く先を、こどもたちでも予測できただろうと思い返すと、顔から火が出るような羞恥を覚えた。
それにしてもと、よからぬ閃きがおれの頭をよぎった。
(どういうわけか、ラブホテルは神社の周りに多い・・)
不謹慎な想像だが、神様は昔からセックス好きではなかったか。人びとの深層心理に植え込まれた因子が、知らず知らずに神域に誘うのではないかと疑った。
鳩森神社の斜向かいに隠れていた連れ込み宿、穴八幡や大鳥神社周辺など、おれたちが利用したホテルの幾つかを思い出してみても、みな後ろめたさをともなって、より深く欲望を刺激したものだった。
あるいは、安宿を作るほうにも明確な計算があって、神社近くにひそませるのだろうか。
樹木の精が降りそそぎ、しかも人目から隠蔽されていて、心が穏やかになれる場所。できれば、ふたりの行為にご加護があらんことをと、居ながらにして祈れる所が好い。そうしておいて、「ほれほれ、また来たぞ」と、小窓の向こうでほくそ笑んでいるのかもしれなかった。
それならそれでいいと、急に開き直る自分がいた。
先刻まで、昼日中に欲情を抱えてさまよう己の姿に、かすかな嫌悪を感じていたのに、シャワーを浴び、ミナコさんを迎える態勢になっていると、何ヶ月間も抑圧されてきた欲望が、金沢文庫のときと同じように潮の香を連れてやってきた。
おれは、おれの中に満ち始めた海の気配をいとおしみながら、ミナコさんの訪れを辛抱強く待った。
ミナコさんは、バスタオルを巻いたまま、おれの前に立った。おれの目を捉えたまま、婉然と微笑んだ。
おれが体に掛けていたタオルケットをめくろうとすると、ミナコさんは首を横に振って、それを押さえた。
「ねえ、わたしのストリップ観てくれる?」
大胆にも定番の音楽を口ずさみながら、バスタオルを操って腰を振った。
おれの中で、何かが弾けた。弾けたものの正体を突き止めないまま、おれはミナコさんに幻惑された。
年齢の割りにしっかりした乳房が、水平線上の月となって現れた。明け方の白白とした天地のあわいに、それは浮かんで消えた。
おれが笑うと、ミナコさんは調子に乗ってバスタオルを首まで引き上げた。本職の踊り子ではないから、隠し損ねて太腿の上に黒いものがちらついた。
それが地肌だったら、おれの驚きも高が知れていただろう。だが、ミナコさんはわざわざナイロンの下着をつけ、押し付けられて乱れた体毛をあらわにしていた。鬱蒼とした夏草の間に、うっすらと溝が見え、そのまま丘の下に回りこんでいた。
おれの愕きの表情を見定めて、ミナコさんは満足げに言葉を発した。
「あなたには、苦労をかけてしまったわ。だから、きょうはサービスしちゃう」
蓮っ葉な演技が恥ずかしかったのか、耳たぶが紅く色付いている。ことばと行為のギャップに気付かないまま、おれのために尽くしてくれたのかと思うと、弾けたものの上から意識が逸れて、愛しさがつのった。
起き上がろうとするおれを制するように、ミナコさんがのしかかってきた。受け口の唇が割れて、ふんわりとおれの唇を捉えてきた。
こんなときに、おれだったら歯をぶつけてしまうだろうなと考えていた。舌を引き出されながら、おれはミナコさんにすべてを任せた。
こうして受身の位置に置かれるのは、嫌いではなかった。
と言うより、おれの性向は本来、誰かに何かをしてもらうことが好きだったのかもしれない。行き当たりばったりに生きてきてはいるが、マンダ書院で怠惰な日々を送っていたころのおれが、真の姿に近いのだと気付いていた。
おれの首から、腕を解いて、ミナコさんが離れていった。
つぎに起こることは、目を開けなくても予測がついた。
タオルケットがめくられて、直接、下腹部に空気が触れた。耐えに耐えていたおれの分身が、勢いよく跳ね上がった。
おれの脚の上に、ミナコさんの重みが乗っていた。不安定な姿勢を正すように、体重を移動した。脚が感じる湿り気が、欲情を煽った。ひときわ漲った支柱に、ミナコさんが縋りついてきた。
おれは、卑猥なこころで目を閉じ続けていた。
ときとして、想像力は現実を大きく上回った。ミナコさんの闇を銜えた唇が、おれの分身を呑み込もうと、蛇のようにのたうっている。
子供のころ、鶏卵を呑んでプックリと膨らんだ青大将を、声もなく見守ったことがあったが、その時の光景が、いま、おれの脳裏に陰画となって甦った。
全身を白くして、S字形の空疎な白い物体を眺めるのは、小学校入学前の男の子だった。反転したその映像は、おれのかすかな記憶にも触れて、理解できていた。 だが、もうひとり、おれの背後から腰を屈めて覗き込む、大きな空隙は何なのだろう。
それまでのルールに従えば、そこにムームーを着けたふくよかな女性の姿が、浮かび上がってくるはずだった。花柄の安いプリント地を予想させる布の下から、丸い肩がのぞいている。
(おかあさん・・)
声を呑んで、かっと目を見開いたおれの網膜に、真昼の陽光と女のシルエットが流れ込んできた。
髪を乱して首を振るミナコさんに、おれの歓喜がどっと噴き上げた。
(続く)
それは、当然なことだと、おれは冷静に考えた。姉夫婦の親切の一部は、母親からの送金にあったのだろうと、邪な想いが頭の中で泥のように動いた。
口には出さないが、ミナコさんは早晩横浜を離れることになると、おれも思っていた。幾部屋あるのか分からないが、夫婦のもとで長期に居候することなど、出来るはずはない。そのことは、ミナコさん自身が承知していて、手紙の中でほのめかしていたことだった。
「ミナコさん、これからは、ぼくが身元引受人になります。なんなら、ぼくがお姉さんたちにお会いして、了解していただきます。そうしたら、その足で、区役所に婚姻届を出しに行きましょうよ」
おれは、紅茶のカップを置いた瞬間のミナコさんを、真正面から見つめた。
「うーん、執行猶予なしに?」
ミナコさんは、おどけたように、おれを見た。「・・だけど、キミ、わたしが手に負えない女だったら、どうするの」
たまに,予想外の角度から球を投げ込んでくることがある。
きょうのミナコさんが、それだった。抑えきれない感情の頂点にいるように見えて、妙に覚めた言動をすることがあった。
挑発を受けたおれも、いつしかミナコさんに同調していた。
「そのときは、ぼくも手に負えない男になるだけさ。こう見えたって、素質がないわけじゃないんだから・・」
たくさんのカップルやグループの会話が飛び交う中で、おれたちのキャッチボールも軽快に取り交わされているように見えたはずだ。
「わたし、七時までには帰るといって出てきたんだけど・・」
ミナコさんが、唇を緩ませた。
おれは、ほんの少しひび割れたミナコさんの受け口を、まじまじと見つめた。ルージュは、意図的に避けているのだろう。透明に近い材質の口紅が、濡れたような光沢で唇をコーティングしていた。
「行こうか」
おれは先に立って、レジで支払いを済ませた。
ホールを出ると、上野の秋がいま真っ盛りであった。向かいの国立西洋美術館や国立科学博物館を囲繞する樹木だけではなく、さまざまな絵画展を案内するポスターまでが、秋色のタッチで掲示板にひしめいていた。
(芸術の秋か・・)
おれは、森に溢れる陽光のきらめきに、目を細めた。奥まったところにある動物園や、東京都美術館方向へ急ぐ人びとに逆行しながら、おれは眩しい想いを抱いて公園口の前の坂道を下り始めた。
人がやっとすれ違える歩道である。西郷さんが立つ上野の山に沿いながら、下りきったところはもう盛り場だった。狭い間口の映画館から、腕を組んだアベックが出てきた。近在の若者らしい雰囲気が、おずおずした目つきから感じられた。おんなの方は、他のものを見ようともせず、ひたすら男の腕に縋りついていた。
おれは、後ろを振り返った。間近にミナコさんがいた。
立ち止まったおれに、体をぶつけるようにして、腕を通してきた。
上野広小路とは反対方向へ曲がり、池之端の信号を左に折れた。途中、水上音楽堂前に、それらしい建物があったが、さすがに気恥ずかしくて通り過ぎてきた。
春日通りを突っ切って、湯島天満宮の裏手に回り込む。おれもミナコさんも、この辺りの地理には不案内だったが、いつの間にか格好のホテルに滑り込んでいた。
部屋は安普請だったが、ともかく白日の下から逃れられてホッとしていた。縺れ合うように歩く二人連れの行く先を、こどもたちでも予測できただろうと思い返すと、顔から火が出るような羞恥を覚えた。
それにしてもと、よからぬ閃きがおれの頭をよぎった。
(どういうわけか、ラブホテルは神社の周りに多い・・)
不謹慎な想像だが、神様は昔からセックス好きではなかったか。人びとの深層心理に植え込まれた因子が、知らず知らずに神域に誘うのではないかと疑った。
鳩森神社の斜向かいに隠れていた連れ込み宿、穴八幡や大鳥神社周辺など、おれたちが利用したホテルの幾つかを思い出してみても、みな後ろめたさをともなって、より深く欲望を刺激したものだった。
あるいは、安宿を作るほうにも明確な計算があって、神社近くにひそませるのだろうか。
樹木の精が降りそそぎ、しかも人目から隠蔽されていて、心が穏やかになれる場所。できれば、ふたりの行為にご加護があらんことをと、居ながらにして祈れる所が好い。そうしておいて、「ほれほれ、また来たぞ」と、小窓の向こうでほくそ笑んでいるのかもしれなかった。
それならそれでいいと、急に開き直る自分がいた。
先刻まで、昼日中に欲情を抱えてさまよう己の姿に、かすかな嫌悪を感じていたのに、シャワーを浴び、ミナコさんを迎える態勢になっていると、何ヶ月間も抑圧されてきた欲望が、金沢文庫のときと同じように潮の香を連れてやってきた。
おれは、おれの中に満ち始めた海の気配をいとおしみながら、ミナコさんの訪れを辛抱強く待った。
ミナコさんは、バスタオルを巻いたまま、おれの前に立った。おれの目を捉えたまま、婉然と微笑んだ。
おれが体に掛けていたタオルケットをめくろうとすると、ミナコさんは首を横に振って、それを押さえた。
「ねえ、わたしのストリップ観てくれる?」
大胆にも定番の音楽を口ずさみながら、バスタオルを操って腰を振った。
おれの中で、何かが弾けた。弾けたものの正体を突き止めないまま、おれはミナコさんに幻惑された。
年齢の割りにしっかりした乳房が、水平線上の月となって現れた。明け方の白白とした天地のあわいに、それは浮かんで消えた。
おれが笑うと、ミナコさんは調子に乗ってバスタオルを首まで引き上げた。本職の踊り子ではないから、隠し損ねて太腿の上に黒いものがちらついた。
それが地肌だったら、おれの驚きも高が知れていただろう。だが、ミナコさんはわざわざナイロンの下着をつけ、押し付けられて乱れた体毛をあらわにしていた。鬱蒼とした夏草の間に、うっすらと溝が見え、そのまま丘の下に回りこんでいた。
おれの愕きの表情を見定めて、ミナコさんは満足げに言葉を発した。
「あなたには、苦労をかけてしまったわ。だから、きょうはサービスしちゃう」
蓮っ葉な演技が恥ずかしかったのか、耳たぶが紅く色付いている。ことばと行為のギャップに気付かないまま、おれのために尽くしてくれたのかと思うと、弾けたものの上から意識が逸れて、愛しさがつのった。
起き上がろうとするおれを制するように、ミナコさんがのしかかってきた。受け口の唇が割れて、ふんわりとおれの唇を捉えてきた。
こんなときに、おれだったら歯をぶつけてしまうだろうなと考えていた。舌を引き出されながら、おれはミナコさんにすべてを任せた。
こうして受身の位置に置かれるのは、嫌いではなかった。
と言うより、おれの性向は本来、誰かに何かをしてもらうことが好きだったのかもしれない。行き当たりばったりに生きてきてはいるが、マンダ書院で怠惰な日々を送っていたころのおれが、真の姿に近いのだと気付いていた。
おれの首から、腕を解いて、ミナコさんが離れていった。
つぎに起こることは、目を開けなくても予測がついた。
タオルケットがめくられて、直接、下腹部に空気が触れた。耐えに耐えていたおれの分身が、勢いよく跳ね上がった。
おれの脚の上に、ミナコさんの重みが乗っていた。不安定な姿勢を正すように、体重を移動した。脚が感じる湿り気が、欲情を煽った。ひときわ漲った支柱に、ミナコさんが縋りついてきた。
おれは、卑猥なこころで目を閉じ続けていた。
ときとして、想像力は現実を大きく上回った。ミナコさんの闇を銜えた唇が、おれの分身を呑み込もうと、蛇のようにのたうっている。
子供のころ、鶏卵を呑んでプックリと膨らんだ青大将を、声もなく見守ったことがあったが、その時の光景が、いま、おれの脳裏に陰画となって甦った。
全身を白くして、S字形の空疎な白い物体を眺めるのは、小学校入学前の男の子だった。反転したその映像は、おれのかすかな記憶にも触れて、理解できていた。 だが、もうひとり、おれの背後から腰を屈めて覗き込む、大きな空隙は何なのだろう。
それまでのルールに従えば、そこにムームーを着けたふくよかな女性の姿が、浮かび上がってくるはずだった。花柄の安いプリント地を予想させる布の下から、丸い肩がのぞいている。
(おかあさん・・)
声を呑んで、かっと目を見開いたおれの網膜に、真昼の陽光と女のシルエットが流れ込んできた。
髪を乱して首を振るミナコさんに、おれの歓喜がどっと噴き上げた。
(続く)
前回の「あなた補導係の人?」から今回にかけて、とても引き込まれながら読ませていただきました。
執行猶予中のミナコさんとおれが久し振りに会った上野公園。
直前に弁護士に会っていたというのが効いていますね。そういう立場のミナコさん。
立場が少しずつずれてどこかに危うさを秘めながらも、つとめて明るく振舞って前に進もうとする二人のいじらしさが読むものにジワッと沁みてきます。
ホテルでの若者らしい真っ当なセックスシーンも、美しく好もしい。ミナコさんが背負わされた罪を一緒に引き受けて生きていこうとするおれの「今の気持ち」が響いてきて何か嬉しい。
二人だけの秘密を持つとき、自ずから一体化していく人間らしい何かだろう。
自分たち夫婦にも若いとき、こんな感情を味わったことが、ちょっぴりだけれどあったなァーーというようなほろ苦い思い出が去来しました。
いま、あれはどこへ行ってしまったんだ!
月日に腐食されてしまったのか。
なんか哀しいね。
どんどんよい小説になっていきますね。
これからも楽しみに読ませていただきます。
これからこの二人どうなっていくのか、、、。
気になるウー。
2006.7.14 5:25AM