ミナコさんは、浴室に消えたようだ。 ひとり取り残されて、おれは横たわっていた。 急速に萎えて、左の太腿に寄りかかった塊を、おれは鼻翼越しに眺めていた。 十分前までは、王侯貴族のように威張っていたのに、いまは使い捨てられたボロ雑巾のように張り付いている。 ミナコさんが、特別の手品を使ったわけではない。これは、オスの身に施された、約束ごとなのだ。 三月にミナコさんが失踪して以来、ずっと持続してきた渾 . . . 本文を読む
母親が亡くなったことで、ミナコさんの立場は弱くなった。 それは、当然なことだと、おれは冷静に考えた。姉夫婦の親切の一部は、母親からの送金にあったのだろうと、邪な想いが頭の中で泥のように動いた。 口には出さないが、ミナコさんは早晩横浜を離れることになると、おれも思っていた。幾部屋あるのか分からないが、夫婦のもとで長期に居候することなど、出来るはずはない。そのことは、ミナコさん自身が承知していて、手 . . . 本文を読む
おれは、ミナコさんの脚の間に片膝をつき、斜めに体を重ねた。すべるような白さに見えた肌が、ずり上がっていくおれの腹に吸い付いてきた。 腕の付け根に口をつけ、そこから首筋へと位置をずらした。顎の裏側にもぐりこむと、ミナコさんはのけぞったまま声をあげた。 おれの中に、得体のしれない男の影が忍び入ってきた。大塚の飲食店街からアパートに戻る途中、暗がりの道で売りつけられたエロ写真の男だったろうか。 純情な . . . 本文を読む
ミナコさんとの、もどかしい通信状況に耐えかねて、おれは電話を引くことを決意した。 ミナコさんに電話番号をどう知らせるのか。名案が浮かばないまま、おれは日本電信電話公社に出向いて申し込みの手続きをした。 半月もすれば、おれの部屋には電話が引かれているはずだった。 ピカピカの黒電話を、どこに置こうかと胸が高鳴った。本箱の上がいいか、それとも坐り机の端か。 電話がついたら、まず誰にかけようか。想像ばかり . . . 本文を読む
身辺に騒がしいことが起きて、巣鴨地蔵通り商店会主催の『こども相撲大会』を観にいけなかったことが、心残りとなっていた。 数日後、チラシの校正を担当してくれた若手事務局員に連絡を取ってみると、イベントは成功裏のうちに終了し、打ち上げの席では、来年もまた継続して催しを盛り上げることで意見の一致をみたとのことだった。「それは、よかったですね。おめでとうございます」「はい、今回はいろいろとご協力いただきま . . . 本文を読む
北千住で東武伊勢崎線に乗り換え、小菅駅に着いた。 プラットホームの時計は、八時少し前を指していた。前回の経験を踏まえて少し早めに家を出たせいか、ここまでの行程はうまくいっていた。 あとは、ゆっくりと歩いていけばいい。おれの気持ちに余裕が生じた。 おれは、ホームに立ったまま大きく息を吸い込んだ。湿った空気が、肺の中に入ってきた。 雨足は、衰える様子を見せなかった。 トップグループを形成するマラソン . . . 本文を読む
ミナコさんの業務上横領事件に関連して、共犯を疑われた不愉快な経験が、おれのなかに、心の傷となって残っていた。(今度は、なんなのだ?) 自然に、身構える姿勢になっていた。「いや、内容を知らずに、頼まれて保管している物があるんじゃないかと思いましてね」 刑事は、遠まわしな言い方で鎌をかけてきた。「知り合いといっても、顔見知り程度ですよ。・・ぼくに、モノを預けるなんて事は、ありえませんね」「へえ、そう . . . 本文を読む
その夜、隣人は帰ってこなかった。 何があったのだろうと考えて、おれの眠気も吹っ飛んでしまった。 明け方になって、とろとろと眠ったようだったが、なんとも不快な気分で目覚まし時計に起こされた。梅割り焼酎のげっぷが突き上げてきた。 二日酔いというほどではないが、胃の調子が悪いのは確かだ。湯で薄めた牛乳と共に、胃腸薬を飲んで家を出た。 しばらく顔を合わせていなかった紺野が、新たな事務所開設の挨拶を兼ねて . . . 本文を読む
その日は、午後から大学に行くアルバイトの写植オペレーターと入れ替わりに、懸案の『こども相撲大会』用チラシ作成に取り掛かった。 こどもの日の前日、五月四日の縁日を開催日としているから、それほど、のんびりとはしていられない。 おれは、レイアウトを考え、写植を打ち、台紙を作り、その夜のうちに貼りこんだ。 出来上がった版下を元に、校正用の清刷りを作り、翌日、巣鴨地蔵通り商店会会長宅を訪れた。 前もって連 . . . 本文を読む
なにを言うのかと、不満もあらわに、立会いの係官を振り返った。「しゃべらなくても、会話をしているんです・・」 きびしく思いを口にしながら、声を荒げなかったことで、なんとか治まりは付きそうだと直感した。 年恰好をみても、看守と呼ばれる職業に就いて、かなりの経験を積んできたはずの男である。制帽の下の表情は判らなかったが、定位置で平然と立っている姿勢からは、おれの言葉に、ことさら反応した様子は見られなか . . . 本文を読む
綾瀬駅で降りると、東京拘置所までの道順が矢印で示されていた。降りてみて、初めて、おれの乗ってきた電車が、地下鉄千代田線との共用車両であることを知った。 このところ、国鉄と私鉄の相互乗り入れが進んでいて、利用者には便利になったわけだが、むかしの知識や経験にとらわれている者には、すんなりと理解しがたいところもあった。 再編を進めて、効率化を図る。 世の中、大胆に仕組みを変えて、より利潤を追求していく . . . 本文を読む
おれは、机の上の原稿をじっと見つめた。 紺野は、彼なりの感覚でチラシのレイアウトを考えたのだろうが、きのう暗室で乾燥させていた印画紙を思い出すかぎり、飾り文字の選び方、変形文字の組み合わせ方なども、いかにも平凡で面白みに欠けていた。 見出し用の書体ひとつを取ってみても、もっと柔軟に考れば、子供たちの躍動する姿にぴったりのものが選び出せただろうにと、まだ目に残っている文字列の数々を検証していた。 . . . 本文を読む
たたら出版で、写植を打ち、冊子の編集を手伝い、営業にも力を注ぎながら、おれはミナコさんとの面会のチャンスを探っていた。 渦中の自動車内装会社の所在地から見当を付け、巣鴨署を尋ねると、管轄は大塚署だと教えられ、その足で護国寺に近い大塚警察の殺風景な窓口を訪れた。 入口で、六尺棒を突いて来署者を威圧する武闘服姿の警官は、いずこにあっても似たような体型をしていた。いきなり暴漢に刺されても、肉の厚さで致 . . . 本文を読む
数日後、おれのもとに二人の刑事が尋ねてきた。 ミナコさんについての詳しい状況は教えずに、ミナコさんとおれの関係について、ひたすら聞き出そうとした。 気に障るような質問も厭わず、ただただミナコさんの犯罪が、おれに起因しているのではないかという見込みで、動いているようにみえた。 おそらく、刑事たちの頭の中には、昨年の秋ごろ世間を騒がせた『滋賀銀行女子行員9億円詐取事件』の概要があったのだろう。 あのと . . . 本文を読む
アパートに帰り着くと、さすがに疲れを覚えた。 病み上がりの身には、きょう一日の出来事はきつ過ぎた。 ミナコさんの消息が、こんなかたちで明らかになろうとは、想像もしていなかった。心の隅に、安堵に似た気持ちが湧いていたが、大きな愕きに圧倒されて、思考の道筋を辿れないでいた。(ミナコさんは、いま、どこにいるのだろう?) 新聞を確かめると、宮城県警によって身柄を拘束されたらしい。 東京に居られず、ふるさ . . . 本文を読む