翌朝、おれは、ふらつきながら家を出た。朦朧とした意識のなかで、たたら出版への執着がおれを衝き動かしていた。 会社に着くと、社長の多々良に、たちまち最悪の体調を見抜かれた。 誰が見ても憔悴した顔付きだったから、見抜かれたというより、気付いてもらうための出勤といってもよかった。「いやあ、これはひどい」 多々良は、おれの額に手を当てて診断を下した。「・・すぐに、病院へ行ったほうがいい」 おれは、社長が . . . 本文を読む
次の日も、その次の日も、連絡はとれなかった。 おれは、焦燥の真っ只中に置かれていても、たたら出版への出勤を止めることはなかった。 理由は判っていた。 一字、一字、写植の文字を打ち込んでいる瞬間だけは、苦しさを忘れていることができたからだ。 それでも、昼休みの休憩に入ると、おれは信号ひとつ分、九段下方向へ歩いて、雑貨屋の角にある電話ボックスまで、電話をかけに行った。 何度ダイアルを回しても、受話器 . . . 本文を読む
翌週、おれは、たたら出版に出勤し、残業も含めてくたくたになるほど働いた。 ミナコさんが会社を辞めることになれば、アパートの家賃をはじめ、ふたりが当面暮らしていくための生活費を確保しなければならない。 中野のアパートは、狭いとはいえ二部屋あり、バストイレ付きの所帯用だから、おれの給料から捻出するにはなかなか大変な金額だった。 自動車内装会社社長をあれだけ痛めつけたのだから、ミナコさんは当然辞めるこ . . . 本文を読む
おれは、暴力で打ちのめされたものが、容易に立ち直れないことを知っていた。マインドコントロールなしには、ボクサーでさえ無理なはずだ。それが、恐怖というものだ。 だが、万が一ということもある。おれは、奴の目を覗き込みながら、耳に息がかかるほど口を近付けて、コトバを押し込んだのだった。「おまえ、赤ちゃんプレーが好きらしいな」 奴の耳元で囁いた駄目押しの効果を、推し量った。切り札が、完全におれの手に移っ . . . 本文を読む
一月末の引越しを念頭に、おれは段取りをつけることにした。「今度の休みの日に、荷物の下見に行ってもいいですか」「そうねえ・・」 ミナコさんは、ためらいを見せた。「大きなものは、みな処分するつもりなんだけど」 できるだけ、おれの手を煩わせたくないという気持ちは、わからないわけではなかった。「・・でも、引っ越しって、なかなか考えた通りに行かないものですよ。こっちも狭いところだから、何をどこへ置くか、多 . . . 本文を読む
イノウエの話を聞いているうちに、おれの中ではひとつの結論が出ていた。「こうなったら、別れるしかないな」 何分かあとには、そう答える自分の姿が目に浮かんでいた。 おそらく、イノウエも離婚を念頭に置きながら、おれに背中を押してもらいたくて、今日ここに来たのだろう。 どのように取り繕ってみても、いったん目覚めさせてしまった怪獣は、もう押さえ込むことなど出来ないのだ。 おれは、マンダ書院で一緒に働いてい . . . 本文を読む
本郷通りに出て、左に曲がったところに、フランス風田舎料理を食べさせる小さな店があった。 ミナコさんはときどき訪れるらしく、濃いルージュをつけ、大胆なカーブの眉を描いた女主人が、満面の笑みを浮かべて迎えてくれた。「きょうのメインは、霧島産の雛鳥と西洋野菜の付け合せよ。スープはそら豆をうらごししたもの。シャンピニオンのクリーム煮もあるわよ」 説明しながら、おれの方にもちらりと視線を流す。 笑みを絶や . . . 本文を読む
はっきりと了解を取ったわけではなかったが、おれは名画座を出た足で、白山上にあるミナコさんのマンションに向かった。 水道橋まで一駅電車に乗り、そこから白山通りをたどる路線バスに乗り換えた。 数年前までは、都電が走っていたころの名残で一部石畳の狭い道路が残っていたが、現在はほぼ拡幅工事も終えたようで、ある時期まで立ち退きを拒んでいた西片町境の中華飯店やビリヤード場も、いまは跡形もなく消えていた。 白 . . . 本文を読む
おれが木更津から戻った夜、ウイークデイにも係わらず、ミナコさんがやってきた。チャイムに応じて玄関のドアを開けると、そこに項垂れたミナコさんの姿があった。「どうしたの・・」 トラブルがあったことは、現れ方で明らかだった。おれは、ずぶ濡れで転がり込んできた雷雨の時と同じように、腕を広げて受け止めようとしたが、ミナコさんは俯いたまま三和土に立っていた。「えっ、その顔どうしたのよ」 おれは、初めて異変に . . . 本文を読む
秋の一日、おれは、木更津まで本の納品に行く多々良社長に同行して、ドライブをすることになった。 写植の仕事は、紺野ともう一人のパートナーに任せ、軽自動車に自費出版の歌集五百冊を積み込んで、飯田橋を出発した。 京葉道路から国道十六号に入り、海岸沿いの工場地帯を経て、袖ヶ浦を通過するころには、もう昼の十二時半を過ぎていた。「いやァ、渋滞ですっかり時間を食ってしまったね。ところで、きみ腹が減った . . . 本文を読む
その夜のカミナリは、いったん去ったかに見えたが、夜半になって再び舞い戻ってきた。まれにみる規模の界雷であった。 おれとミナコさんは、またも電燈を消して、夏掛け布団を頭からかぶった。 そうやって二人で作った暗がりに潜んでいると、誕生の秘密に出会えるような不思議な感覚に包まれる。 退行催眠とは、このようにして導かれるものかもしれないと、おれは思った。暗がりの質は違っても、被験者をその中に誘導 . . . 本文を読む
別れるまでには、紆余曲折があっただろうと、おれはミナコさんを思いやった。婚姻届まで出した関係を解消するには、想像もつかないエネルギーが要ったに違いない。 いきさつを聞こうとは、思わなかった。ミナコさんも、こまごまと話そうとはしなかった。ひとたび時間を遡りはじめれば、山形から希望に満ちて上京した少女が東京という罠にかかって苦しんだ日々を、すべて再現しなければならなくなる。「ひどい奴だ!絶対に許せな . . . 本文を読む
暗い中でドアノブに手をかけながら、もう一方の手で室内灯のスイッチを探していた。「どなた?」「あけて・・」紛れもないミナコさんの声だった。 玄関の、それほど高くもない天井の蛍光灯がパチパチと瞬いて点き、おれが押した鉄扉の隙間から、ミナコさんが転がりこんできた。「どうしたの、こんな日に・・」 おれは、思わず手を差し伸べてミナコさんを抱きとめた。ポロシャツに短パン姿のおれの胸部に、ずぶぬれのブラウスが . . . 本文を読む
夕方五時から、新宿区役所通りに面したレストランの一室を借り切って、イノウエと佐鳥さんの結婚披露パーティーが催された。 おれが会場となる部屋に入って、受付の女性に会費を払っていると、友人に囲まれて談笑していたイノウエがおれを見つけて近寄ってきた。「やあ、おめでとう」 先手を打って、挨拶した。「いやあ、うれしいです。忙しいところを来て頂いて、ほんとに申し分けなかったです」 イノウエは、ほんの少し大人 . . . 本文を読む
「ぼくは、何があっても別れないからね」 おれは、呟くように言った。「わたしだって、あなただけなのよ」 ミナコさんも、眩しそうにおれを見返した。「・・覚えているかしら、わたしの顔を、まじまじと見てくれた日のこと。あの時、営業のひとと話をしていても、ポーッとして何も覚えてないのよ。わたし、あんなふうに見つめられたの初めてだから、もう気が飛んでしまって」 ミナコさんは、頬を上気させていた。 おれは、たし . . . 本文を読む