大阪龍馬会

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河井継之介 銃撃はここ

2007-07-14 01:20:52 | 幕末ニュース
○幕末・明治期の戊辰戦争で、長岡藩の軍事総督だった河井継之助が命を落とすきっかけになった脚に受けた銃の傷―。長らく諸説あったこの銃撃場所について、地元の住民有志が1か所に絞り、近くその地である長岡市新町二丁目の国道352号沿いに、記念の看板を設けることになった。住民らは「河井継之助について学ぶ一助になれば」と話している。○河井継之助は慶応4年(1868)7月25日、長岡城を巡る戦いの最中、左脚に銃弾を受けた。その傷が悪化し、敗走先の福島県只見町で死亡した。○記録などによると、継之助は長岡城下への入り口となる「新町口」(同市新町地区)で、新政府軍に撃たれたとされている。ところが、その銃撃場所を巡っては複数の言い伝えがあり、これまで特定できていなかった。○昨年12月に同市に「河井継之助記念館」が開館し、継之助に再び脚光が当たり始めたことをきっかけに、新町地区の歴史愛好家ら住民有志が協議。○同市西新町一丁目の長福寺に伝わる「陣羽織を着て、寺の参道を出たところで狙撃された」との説の信頼性が高いとの意見で一致し、寺から約100m先の国道352号沿いにある蕎麦屋「石田屋」の壁に看板を設置する事を決めた。○看板の制作費は地元住民の寄付で賄う。文言は「史実、河井継之助が新町口で撃たれた場所が判明」との見出しで始まり、その経緯などを詳しく紹介する。○住民有志の1人で、米穀店「高石商店」社長の高石恒一さんは「場所はほぼ間違いない。継之助について調べている子供たちの勉強に役立つものにしたい」と意気込む。言い伝えが残る長福寺の伊藤良全副住職は「多くの人が苦しんだ戊辰戦争の記憶を伝えるものになれば」と話す。○河井継之助記念館の稲川明雄館長は「場所の特定はできないが、当時、継之助の作戦で家が焼かれた新町住民の複雑な心境を考えると、住民自らが調べ、こうした結論を出すのは評価できる。継之助の苦労を見直そうとする動きと言える」と話している。(朝日新聞5/25)


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