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大阪龍馬会

1987年に創立して2017年は創立30周年。龍馬好きの集まった大阪龍馬会が龍馬会の活動をお知らせします。

読売新聞とサンケイ新聞

2009-09-23 00:01:00 | 活動報告
最近掲載された大阪龍馬会の新聞記事です。紹介します。


生涯と手紙から龍馬の魅力知る 大阪市で連続講座=大阪

 幕末の志士・坂本龍馬の手紙などを読み、龍馬の魅力に迫る連続講座が19日午後6時から、大阪市立中央青年センター(同市中央区)で始まる。
 NHK大河ドラマ「龍馬伝」が来年放送されるのを前に、龍馬ファンでつくる「大阪龍馬会」が企画、12月まで講座を4回開く。前半の2回で龍馬の一生を学び、後半の2回で龍馬の手紙を読む。講師は同会の林慎吾・事務局長が務める。
 講座は2回目以降、10月17日、11月21日、12月19日。時間はいずれも、午後6~8時半。各回とも定員40人、会費1000円、締め切りは開催日の前日まで。
 参加希望者は、龍馬会事務局にファクス(072・853・9669)か、メール(s‐hayasi@cronos.ocn.ne.jp)で申し込む。

[読売新聞社 2009年9月17日(木)]



【上町に学ぶ 古都おおさか再生】夕陽丘 長谷吉治 陸奥一族ゆかりの絶景

 上町台地西側に「夕陽丘」という地がある。鎌倉期、『新古今和歌集』の撰者として藤原定家と並び評された藤原家隆。日想観を修めながら永眠することを望んだ家隆は、78歳で京を離れ、夕陽絶景の地(大阪市天王寺区夕陽丘町5)に「夕陽庵(せきようあん)」を築いた。「契りあれば 難波の里に宿り来て 波の入日を 拝みつるかな」との歌を詠み、わずか十数日で他界した。
 幕末期、紀州藩元重臣の伊達宗広は、政敵によって田辺で蟄居(ちっきょ)させられた。彼の第六子、伊達小次郎(後の陸奥宗光)は坂本龍馬率いる「土佐海援隊」の隊士として勤王倒幕に活躍した。
 宗光が新政府に出仕したため、明治2(1869)年、宗広は約15年の幽閉から解放された。敬慕する藤原家隆の墓を訪れ、荒廃した墓碑などを修繕。付近の土地千百数坪を購入して「自在庵」を築き、余生を歌道に専念した。家隆の歌から、この地を「夕日岡」と創名したのは宗広である。
 宗広が自在庵に在住中、維新の功労者である薩摩藩元家老の小松帯刀が3年、大阪で病死し、夕陽丘に埋葬された。「明治維新の國士小松帯刀の碣(いしぶみ)も此處(ここ)にあった」と田中吉太郎著『夕陽丘の回顧』に記載があり、宗広の敷地の一角に帯刀と側室、琴仙子(ことせんこ)の墓があったと思われる(9年、鹿児島県吉利村園林寺に改葬)。
 宗広は病のため東京の宗光宅へ移る際、「空蝉の 殻は何処に 朽ちぬとも 我が魂(たま)やどる かた岡ぞこれ」を詠んだ。10年に他界し、遺言によって夕陽丘に埋葬された。
 宗光は、墓の傍らに宗広の生涯と事績を顕彰する「夕陽丘阡表(せんぴょう)」を建立。その後、宗光をはじめ、陸奥家一族はいずれも夕陽丘に埋葬されている。昭和27年、稱念寺が陸奥家墓所地を購入し、整備を行った。
 翌年、陸奥家墓所は鎌倉の寿福寺に改葬となったが、稱念寺には遺跡が残っており、ご住職の尽力で、境内にあった「夕陽丘阡表」、原敬が建立した「陸奥宗光に追慕の意を表する碑」「宗広の句碑」「清(さや)地蔵」(宗光夫妻が20歳で死亡した長女、清子(さやこ)を悼み、建立した等身大の地蔵尊)は、敷地外に移築された。
 非公開であるが、境内には当時からある菩提樹、宗光の二男潤吉の義父、古河市兵衛寄贈の常夜燈、宗光最初の妻、蓮子の墓碑などが残っている。
                  ◇
 【プロフィル】長谷吉治
 おさたに・よしはる 昭和38年大阪府生まれ。62年龍谷大学卒業。トヨタカローラ大阪の人事(教育・採用)担当を経て、平成15年から学校法人追手門学院事務職員。平成8年から大阪龍馬会の幹事として、これまで大阪史跡探訪を9回実施。

[産業経済新聞社 2009年9月15日(火)]


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