緒方洪庵の次男で、明治天皇の侍医も務めた惟準(これよし)(1843~1909年)の没後100年記念展「緒方惟準の生涯」(大阪大学・適塾記念会主催)が、大阪市中央区北浜の適塾で、6月2日から14日まで開催される。
惟準は、洪庵の名声の陰に隠れて、一般には目立たない人物だが、司馬遼太郎の「花神」の主人公として描かれた適塾生、大村益次郎(1825~69年)の最期を看取った医師として知られる。
2人の関係は、大村が入門した弘化3(1846)年にさかのぼり、大村は幼い惟準を「平三さん」と呼んで、おんぶして子守をしたという。惟準は、その後西洋医学を学び、洪庵の死後はオランダに留学、軍医となった。
明治2(1869)年9月、大村は京都で刺客に襲われて負傷し、大阪病院に担ぎ込まれて、惟準に再会。その手を握り、「よく来てくださった。洪庵先生の跡継ぎの治療を受けるのはありがたい」と喜んだという。
明治10(1877)年の西南戦争で、惟準は征討軍団病院副長として従軍した。当時日本に入ってきた赤十字の理念に共鳴し、敵味方を問わずに診療・看護して、洪庵が説いた「医は仁術」の精神を実践した。
明治20年に退官し大阪に帰った後は、緒方病院の経営に当たるとともに、貧窮者のための医療活動に従事した。
記念展には、惟準が編纂(へんさん)した「軍医須知」の初編などの著述も出品され、その足跡をたどる。惟準の研究者である中山沃(そそぐ)岡山大学名誉教授は、「明治期の医学を語る上で欠かすことができない人物です」と話している。
5/29 産業経済新聞社
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惟準は、洪庵の名声の陰に隠れて、一般には目立たない人物だが、司馬遼太郎の「花神」の主人公として描かれた適塾生、大村益次郎(1825~69年)の最期を看取った医師として知られる。
2人の関係は、大村が入門した弘化3(1846)年にさかのぼり、大村は幼い惟準を「平三さん」と呼んで、おんぶして子守をしたという。惟準は、その後西洋医学を学び、洪庵の死後はオランダに留学、軍医となった。
明治2(1869)年9月、大村は京都で刺客に襲われて負傷し、大阪病院に担ぎ込まれて、惟準に再会。その手を握り、「よく来てくださった。洪庵先生の跡継ぎの治療を受けるのはありがたい」と喜んだという。
明治10(1877)年の西南戦争で、惟準は征討軍団病院副長として従軍した。当時日本に入ってきた赤十字の理念に共鳴し、敵味方を問わずに診療・看護して、洪庵が説いた「医は仁術」の精神を実践した。
明治20年に退官し大阪に帰った後は、緒方病院の経営に当たるとともに、貧窮者のための医療活動に従事した。
記念展には、惟準が編纂(へんさん)した「軍医須知」の初編などの著述も出品され、その足跡をたどる。惟準の研究者である中山沃(そそぐ)岡山大学名誉教授は、「明治期の医学を語る上で欠かすことができない人物です」と話している。
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