去年の仕事は12月29日火曜日が仕事納めだった。
そこで翌日の30日水曜日に千葉に買い物に出掛けた。
その前に京成千葉中央駅近くのラーメン店に行く予定だったので、
JR総武線ではなく京成幕張から京成千葉線で千葉中央まで行くことにした。
この駅は普段の通勤でも使っているのだが、
少し早めに到着していたので以前から気になっていた駅から見える解説板を確認してみることにした。
駅近くの場所に立っているのだが、普段は時間に余裕がなく確認できなかったのだ。
見学している人も見掛けるのだが、何の解説なのかは分からなかった。
近くに行ってみるとそこは「千葉県指定史跡 青木昆陽甘藷試作地」だった。
そこにある解説板には以下のように書かれていた。
千葉県指定史跡 青木昆陽甘藷試作地
所在地 千葉市花見川区幕張町4丁目598番1
指定日 昭和29年12月21日
この地は、享保20年(1735)八代将軍吉宗の命により、
青木昆陽が薩摩芋を試験栽培し、成功したところです。
昆陽は江戸日本橋の魚商の子で本名を文蔵と称し、
京都で儒学を伊藤東涯に学びました。
江戸に帰ったのち町奉行大岡越前守に抜擢され、
幕府書物方に登用され古文書調査・蘭学に励む一方
「藩薯考」を著し甘藷栽培を説き、
救荒食として飢饉に備えるよう吉宗に上書し認められました。
甘藷は小石川養生園(現植物園)、下総馬加村(現在地)、
上総豊海(九十九里町)で試作されましたが、
現在地のみが成功しました。
甘藷栽培を紹介した人は昆陽以前にもいましたが、
関東地方に広めたのは昆陽が最初であり、
幕府の事業として実施したため全国に影響を与えました。
その後幕張における甘藷栽培は次第に増え、
天明の大飢饉にも甘藷のおかげで餓死者は皆無であったと伝えています。
天保年間(1830~40)には、
検見川で甘藷から飴も製造されるようになりました。
平成9年3月
千葉市教育委員会
青木昆陽については地元の英雄ということもあり、中学時代から学校で勉強していた。
ちなみに中学の校章も“中”の文字の廻りを3枚の芋の葉が飾っているというものだった。
近くには青木昆陽を祀った昆陽神社もある。
以前は鬱蒼とした森のようなところに小さな祠があるだけだったが、
総武線、総武快速線、京成千葉線を跨ぐ大踏切を回避するために、
幕張昆陽隧道が整備され、その際に昆陽神社も一度撤去されて別の場所に間借りし、
隧道の完成とともに現在の場所に再び戻されてのだ。
社殿は2つ並んでいて、右側が昆陽神社、左側が秋葉神社である。
秋葉神社は秋葉権現を祀っているもので、秋葉権現とは遠州秋葉山の山岳神のこと。
火難除けの神として知られ、全国で信仰を集めている。
余談だが、秋葉原の地名も近くにある秋葉神社に由来している。
火災の際に大火になるのを避けるために意図的に空き地を造る火除地であったため、
秋葉神社のある原っぱということで、「秋葉原」と書いて「あきばはら」と読んでいたが、
それがのちに転じて「あきはばら」と読むようになったという。