14.東海道本線幸田と三ケ根の駅取材
相見のトイレでTシャツを着替え、11:04岐阜行きで安城まで戻り、
先ずは予定していた「北京・昭和町店」で北京飯を喰い、
駅取材してから12:20発の上り列車に乗り込む。
この列車も豊橋で少々停車していて、その間に車両取材した。
乗り込んだ列車は313系0番台Y1編成だった。
0番台としてはY2編成とともに、
1999年7月6日に落成したトップナンバーである。
相見から4つ戻って安城まで来ていたので、
安城から上り方面に5つ進んだ幸田に行く。
JR幸田駅は島式1面2線の地上ホームを有する東海道本線の駅である。
1番線は上り方面、2番線は下り方面が使用し、
駅舎とは跨線橋で結ばれている。
幸田に駅が出来たのは1908年9月11日である。
この地に駅設置運動が起こったのは1900年で、
相見村住民が「相見村停車場設置期成同盟会」を結成したことに始まる。
1906年に坂崎村、相見村、深溝村が合併した時に、
村内を流れる広田川から新しい村名は「広田村」とした。
しかし「広田」は既に磐越西線に同名の駅があったため、
読み方の「こうだ」はそのままに「幸田」と表記を変えて駅名に決定された。
この駅名に合わせるように、自治体名も「幸田村」としたが、
読みは「こうた」としている。
幸田駅も無人駅で、インターホンで呼びだし、
カメラで切符を確認して自動改札の電源を切って入出場するルールである。
幸田で駅取材して、次は隣の三ヶ根に行くことにしたが、
三ヶ根で取材が終了したのが0:49p.m.だが、
下り方面は13:15豊橋行きまでない。
真夏日で気温も高く、ホームで長時間待つのはさすがにしんどい。
そこでいったん13:00発の下りで隣の相見まで行き、
13:12発の豊橋行きに乗り込む。
これは幸田を13:15発の列車である。
ただ、冷房の効いた車内に居たいために逆方向になったのだ。
こういう利用の仕方が許されるのも青春18きっぷの特典である。
JR三ケ根駅は相対式2面2線の地上ホームを有する東海道本線の駅である。
1番線は下り方面、2番線は上り方面が使用する。
画像は東口で、橋上駅舎化されている。
この地に駅設置運動が起こったのは1900年で、
相見村住民が「相見村停車場設置期成同盟会」を結成したことに始まる。
この運動で1908年9月11日に幸田駅が開業した。
1951年に地元で再び駅誘致運動が起こり、
岡崎市や刈谷市とともに「国鉄三駅設置期成同盟」を結成した。
しかしこの時は開業に至らず1959年に活動は停止された。
しかし翌年の1960年に東海道新幹線の土地買収によって、
再び駅誘致運動が再燃され、1967年3月20日に開業した。
西口の駅前には「三ヶ根山殉國七士廟参道」があった。
“殉国七士廟”とは三ヶ根山スカイラインという有料道路の中にある、
東京裁判で死刑となった軍人や政治家の廟のことである。
一般社団法人殉国七士奉賛会のホームページによると、
殉国七士とは、
東條英機氏(元首相・陸軍大将)
土肥原賢二氏(元陸軍大将)
広田弘毅氏(元首相)
板垣征四郎氏(元陸軍大将)
木村兵太郎氏(元陸軍大将)
松井石根氏(元陸軍大将)
武藤章氏(元陸軍中将)
で、いずれも大東亜戦争開戦時に日本国の指導的立場にあった人たちです。
日本の敗戦により「A級戦犯」の名のもとに裁かれ、
遂には絞首刑を宣告されました。
とのことで、ここは駅から徒歩で行ける場所ではなさそうだ。
※引用、参考:一般社団法人殉国七士奉賛会 http://ki43.on.coocan.jp/