ほぼ日刊、土と炎、猫と煙突

白く燃え尽きた灰の奥深く、ダイアモンドは横たわる。

ここより永久に。

2004年12月27日 01時02分23秒 | 古い日記
クローン猫の事を書いたら、2つトラックバックを頂戴した。
やはり「時事ネタ」は強いな。(何が強いのか?よくわからんけど)

さて、再び「アクセス、コメント、トラバ無し」になりそうな
話題に戻ろう。

山田元四郎
の事だ。(参照:12/24、婿養子、元四郎)
写真の一つも上げたい所だが、無理なので、
「恐い顔した大橋キョセン」でもイメージしてもらいたい。

彼の業績は、「武闘派でならした」事だけではない。
彼に関する記事を読んでわかったが、先見の明のある頭脳派でもあった。

戦争から帰ってきて、「日本国の復興」について彼はこう考えた。

「わが国は、これから、
 発展する都市と過疎化する都市で、2極化するだろう。
 発展する都市とは、『空襲で焼け野原になった都市』で、
  過疎化するのは、『戦災の被害に遭わなかった都市』だ。
 残念ながら、この街は後者に属する。」

こう主張して回っていた。

何故、焼け野原になってしまった都市の方が発展性があるか?
と言えば、「建物が無いから」である。

「今、建物があって、新都市を計画する場合、
 立ち退きの交渉やら、立ち退き料やらで、膨大な時間と金がかかる。
 道路も建物も無くなった場所なら、未来を見据えた街作りができる。」

が、戦災に遭わなかった街は、
「戦前と同じく、平和な生活ができれば良し」
と考えているので、旧態然とした街に甘んじ、
10年後には過疎化する、と言う意見の持ち主だった。

当時の街の写真を見ればわかるが、
「車道と歩道と商店街」という概念が全くなかった。
「店を出たら即国道」で、当たり前だった。

今でもそういう場所があるが、
一体どうやって買い物するのか?わからない。
歩きで行くのも危険だし、自動車も止められない。
すたれるのは当然だ。

「籠も馬も飛脚も町人も」同じ一つの道を共有していた
「江戸時代の名残り」としか、言いようが無い。

しかし、当時の日本では、「自動車が今日のように普及する」
状況は予測できなかったし、元四郎氏の言葉に賛同する者は
少なかった。

結局、元四郎氏は少々強引な手を使って、街の区画整理を押し進める。
(いくら資産家とは言え、一個人でどうしてそんな事が出来たのか?
不思議だけど)
その結果は5年もせずに現れ、元四郎は一時神のように崇められた。

勢いに乗った元四郎は「市長選」に打って出るが、ここに
落とし穴があった。
100%の自信を持っての出馬なので、会社も息子に譲り、
自分は引退してしまった。

しかし、選挙の結果は...自分が予想以上に他人から、
「恨み」や「妬み」を買っていた事を思い知る事になった。

戦国時代なら、名のある武将にでも成ったであろう彼の人生は、
ここで終わった、と言えるかも知れない。

会社を譲られた息子、と言うのが今の俺の社長だ。
元四郎氏が亡くなって、3年後、俺はその社長に頼まれて、
元四郎氏の家の後片付けを手伝った事がある。

その時、「あ!」と思った。
すっかり忘れていたが、俺は子供の頃、ここで良く遊んだ。
この近所に友達がいたのだ。現場に来て、思い出した。

元四郎氏の家の前の大きな駐車場、
ここで、テニスボールを使って野球をしたものだ。

たまたま、打ったボールが家に入ってしまった事があった。
「どうする?」
「取りに行くか?」
「恐い人かい?」
「いやあ。選挙で市長になりそこねた人の家だからねえ。」
「そりゃ、かなり機嫌が悪いんじゃない?今?」
「でも、俺達、選挙権ないしな。関係ないよ。」
そんな事をブツブツ言いながら、大きな門のドアフォンを鳴らした。
「ハイ」
出てきたのは、やさしそうなお婆さんで、事情を話したら
庭を探させてくれたが、結局ボールは出てこなかった。

あれから○十年、こんな形で、この庭と再会するとは。

手入れする人もおらず、荒れ果てた庭で、俺はそんな事を考えた。

あのやさしそうなお婆さん(誰だかわからず)はもちろん、
一緒に遊んだ友達の一人も不慮の事故でこの世を去った。
(この友達の事も書けば相当長くなるな)
元四郎氏もそう...

人生って、本当にわからねえ。

最後に、「あの時無くしたボール」と「奇跡の再会」でもしたら、
見事だけど、それは無かった。

長くなったので、また。