ほぼ日刊、土と炎、猫と煙突

白く燃え尽きた灰の奥深く、ダイアモンドは横たわる。

幻の作品の幻

2009年06月27日 23時56分05秒 | 時事メモ
藤田嗣治22歳の絵発見 画家の出発点示す婦人像
2009年6月25日(木)22:04

(共同通信)
 フランスや日本で活躍した画家藤田嗣治(1886~1968年)
が学生時代の22歳に描いたとみられる油絵が見つかったことが25日、
分かった。これまでに確認されている藤田の作品の中で最も古いとされ、
画家の出発点を示す貴重な発見として注目される。
作品は、東京都内の個人が昨年、東京芸術大に寄贈した。
縦約60センチ、横約45センチの油絵で、
いすに座った和服の女性の後ろ姿を描いている。

以上、コピペ。

……読んで思い出した。非常に個人的な事だけど。

俺が幼い頃「モーのおじさん」と呼んでいた親戚の人がいた。
(名前の由来はわからない)
彼は若い頃には絵画を習っていた…らしい。

昔々、彼は絵の先生から、こういう話を持ちかけられた。
「私の師匠の絵画を是非、買って欲しい」
とか何とか。

(『寄付だと思って買え!』なのか?
 『特別に売ってあげてもいいんだよ』だったのか?
 この辺の詳しい経緯は不明である)

モーおじさんは思う。
(先生のそのまた先生なんだから、ホンモノなんだろう)
そう判断した彼は結局、
大枚(かどうかは知らないけど)を叩いて購入した。

話の流れからして、言わずもがなだが……
「その先生のそのまた師匠」とは後の
レオナール・フジタ(藤田嗣治)である。

何しろ戦前の事だし、その後、その絵がどうなったのか?
消息がハッキリしない。
「公表すると大騒ぎになるから」
と言う理由で「モーのおじさん」がどっかに封印して
隠してしまった事までは聞いているのだけれど。

余談だが……
モーおじさんの方は、その後、絵描きのえの字もない
普通の生活を送った後、他界した。

野獣死すべし(2)

2009年06月24日 23時33分26秒 | EW&F
前回→ここをクリック

Yさんもねえ。
思い出すと、結構、色々な事がありました。

でも、まあ、面倒なんでエピソードは割愛します。

結局、彼女は東京の本社勤めになり、
やがて数年後、退社する事になりました。

前日、東京本社から私に電話が掛かってきました。
「Yです」
「ああ。退職するんだって?」
「今まで色々ありがとうございました」
「こちらこそ、何もしてやれなくて」
あれこれ言うより、背中で語る。
通じていたか?どうか?はともかく、それが私の基本方針でした。
(今考えると、正しい方法とは思えません)
お互い、ありきたりの別れの挨拶を交わした後、
彼女はいつになく深刻そうな声のトーンで言いました。
「あの最後に……これだけは言っておきたかったんですけど」
「?」
(一体、何だろう?)
そっけない自分の態度のせいで、いつの間にか
Yさんの心を傷付けてしまったのかも知れない。彼女には
そう思われても仕方が無い様な事を、随分としたものです。
これからの人生で。
何度も繰り返し自戒する事になるであろうYさんの言葉を
受け止める心の準備ができた頃、彼女は言いました。
「RESANDOさんって、かわいかったですよ。ププッ」
「……」
「最初に遭った時、憶えています?」
「ああ」
「この人、背中に鍵穴でも付いているんじゃないか?って思ったんです」
意味がわかんない。
「……そうなの?」
「そこにネジを差し込んで、巻いている人がいるから
 動いているんじゃないか?って」
「ハァ?」
「なんかゼンマイ仕掛けのお人形さんみたいだったし。キャハハ」

いくら最後とは言え……そこまで言いますか?

この時。

まだ俺の心の奥底に潜んでいた野獣(最後の一匹)は
完全に息の根を止められました。

以来、彼女とは会っていませんが、
どこかのデザイン会社で働いているそうです。

<終>

後書き:
まあ、こんな風な「ヌルい絵」
描いてちゃ、ナメられてもしょうがねえか。



しかし、あの業界は
絵のセンスは大した問題では無い。
と言うか……絵心など無い方が無難だ。

肝心なのは顧客の要望を満たしつつ、(言葉巧みに丸め込む)
「いかに製作コストを抑えるか?」(単純な絵柄ほど、利益は高い)
が最大のポイントである。

野獣死すべし(1)

2009年06月23日 23時32分34秒 | フィクション
恥の多い生涯を送ってきました。
いや、最近では……
「そもそもこの俺には羞恥心なんてものは無かったんじゃないか?」
とさえ、思うようになりました。

まあ、人間失格などと言う言葉がありますが。
失格を自覚できる内はまだまだ……

「ちゃんちゃら可笑しい文学青年の深刻気取り」
と申せましょう。

本当の「堕落」とは、
「人としての格」を失う度に、それに慣れていき、
ついには”開き直った喜び”をそこに見出してしまう事です。

さて。「ある女」の話です。

彼女の名前は仮にYさんとしておきましょう。

Yさんは某美術大学を卒業した後、新卒で我が社に入社しました。
一応、若いネーチャンです。

しかし……



言うなればこんな感じ。その堂々たる体躯は、
南海キャンディーズの「しずちゃん」状態です。
とても美大出の女の子とは思えません。
(まあ、外見は関係無いんだけど)

正直、かなりビビリました。
「始めまして。Yです」
「あ、RESANDOです」

けど、相手は10歳以上、年下。
ここでナメられたら、いけません。

おそらくは将来、自分の部下になるであろう彼女に、私は
(オマエなど眼中に無い! 俺は今、忙しいんだ!)
と言わんがばかりにマック(パソコン)に向かったまま挨拶したものです。

「パソコンでデザインしているんですか?」
「そうだよ。アドビのイラストレーターは使った事ある?」
「……無いです」
「そうか。いずれ覚えてもらわなきゃな」
「は、はい」
彼女は「尊敬の眼差し」をもって仕事に打ち込む
私の後姿を見つめていました。(多分)

こんな事で、私は”勝った”つもりでいたのです。

でも、今考えるとYさんの方は……
「珍しい生き物」にでも遭遇したかのように、
思っていたに違いありません。

<続く……よな気がする>

女生徒

2009年06月22日 22時32分46秒 | 古い日記
以下、コピペ

学生の日記を作品のネタにした太宰治。

”女生徒”で成功したのは太宰治だ。

太宰治が自殺未遂を繰り返していた。
最初の自殺未遂は昭和4年。弘前高校3年生のときのこと。
カルモチン(鎮痛薬)を大量に服用した。
しかし、死ぬ気はなかった。

その後、3回の自殺未遂を繰り返した後、太宰の生活は荒れ果てる。
だが、井伏鱒二に紹介された石原美知子との結婚で安定を得た。
このころに書いた『走れメロス』で一定の評価を得て、
その後に『女生徒』という小説を書く。
これで太宰は世間にかなり認められることとなる。

この『女生徒』は、19歳の有明淑子
の日記を入手したことから生まれた。
日記は、彼女が昭和13年5月〜8月までつけていたものだ。
太宰はそれを1日の出来事に構成し直した。
日記をそのまま写した部分もあるが、
構成をよく工夫し、太宰独自の味付けを加えた。

以上、コピペ終。

女生徒 By 太宰治→ここをクリック

余談ではあるが……
子供の頃、「走れメロス」の感想文を書かされた。
凄い苦痛だったので(以下、略

It's all about me

2009年06月21日 00時30分53秒 | 古い日記
無茶、と言うか、プチ・暴挙をした。(俺的に)

若者風を装いつつ、上にノー・スリーブのTシャツ。
さらにシルバー風のチョーカーを身に付け、
下にはスキニー風なパンツを穿きながら、
ポップカルチャー的なファンシーグッツを売っている店に入る……
という風に。

何か妙な形をした鏡が陳列している棚の辺り。
そこにいた女子高生風の女の子は俺と目が合うなり、
「ひぃ」
という、小さなうめき声を挙げた。

よく見れば、ひょうちゃん(2号の方)だ。
彼女とは何故か?思わぬ所でよく出会うが、
その度に向こうは凄い顔で驚く……事に俺は驚く。

「な、なんでいるの?」

最近はそういう「答えようが無い質問」をする事もなくなったけど。

「こ、こんにちは」
「こんにちは。最初、誰だかわからなかった」
「私も」

普通に挨拶した後、思わず訊ねた。

「今、何㎏あるの?」
「○○㎏くらいかなあ」
「……」
成人男子なみの体重だ。(もちろん俺よりも多い)
けど、太っている、という感じはしない。
むしろ体脂肪は少ない方だろう。
「空手やってるんだって?」
「うん」
「なんか……セリーナ・ウィリアムズみたいだぞ」
「誰、それ?」
「ヴィーナスの妹」
「余計、わからない」

「わからなくてもいいけどさ」

ひょうちゃん(一号の方)が
「今は家族の中で最弱者に転落した」
と嘆いていたが、納得。

アンドレ(ザ・ジャイアント)じゃない。

2009年06月17日 22時34分10秒 | 音楽
この“ブタさん“↑の昔の姿

10代後半~20代前半かも知れぬ。
……体脂肪率10%前後の頃のイングベイ・マルムスティーン
Yngwie Malmsteen Solo. Good Quality !

そろそろ、ヤバくなってきた頃↓
(指が白い芋虫みたいだぞ)
Malmsteen - Blitzkrieg

現在はダイエットに成功し「ヤバくなってきた頃」まで戻ったらしい。

答え

2009年06月16日 21時40分07秒 | 古い日記
先日の正解:

てか、問いは→ここをクリック

ヴョルン・アンドレセン

映画「ベニスに死す」
美少年、タージオ役

(Death in Venice - 1971)


白人男性の成長過程に於いて、ほんの一時期だけ発現する「女の子の顔」だね。
(だったら、せめて少女にしとけよ。このロリコンが!)

「ベニスに死す」はトーマス・マンの小説が原作だが、wikiに曰く。

トーマス・マンは実際にヴェネツィアに旅行し、
そこで出会った上流ポーランド人の美少年に夢中になり、
帰国後すぐにこの小説を書いた。

ただし小説では主人公アッシェンバハは50代で、
妻に先立たれ一人娘は嫁いでおり、
ヴェネツィアには一人旅をするという設定だが、
マンがヴェネツィアに旅したのは三十代半ばで、
妻や子供、兄のハインリヒ・マンなどと一緒だった。

マンに見初められた美少年は自分の方をじろじろ眺める
ドイツ作家の存在を意識しており、
後年この小説のポーランド語訳が出た際には
自分がモデルとなった作品であることに気づいたが、
そのことを公言しなかったため、
モデルの身元が判明したのはマンが死去してしばらくたってからであった。

……ちなみに
”マンに見初められたポーランド人美少年”
の写真を発見した。こっちがリアル・タージオだ。


↑○で囲った白黒写真の方。

じゃあ、次。これは誰だ?
ヒント:
知っている人はスグわかる。バン・ヘイレンと並ぶ’80年代を代表する……

それにしてもこれはヒドイ。酷すぎる。どこのブタですかあ?
(彼も北欧出身です)

「若い頃は滅茶苦茶カッコ良かった」
と言っても……誰も信じねえよなあ。