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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』I 序論(五)「精神現象学の目的」(その2):「普通の認識」は「精神の現象」にすぎない!だがその「現象」をほかにしては「精神」自身が現れることができない!

2024-03-23 13:22:51 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
I 序論(五)「精神現象学の目的」(その2) 
(6)-3 「学一般の知」=「絶対知」の「生成」こそは「精神現象学」が叙述するところのものである!
★これまでは「普通の認識」の立場から、『精神現象学』は「普通の意識」から、頂上である「絶対知」へ至るまでの「道案内」あるいは「梯子」(ハシゴ)だと述べた。(58頁)

★逆に「絶対知」あるいは「哲学的認識」の立場からも、『精神現象学』が必要となってくる。なぜなら「絶対知」が真実だとしても、それが「普通の現実的な認識」のうちに滲透し現実的な意義をもつことが承認されなくては、「絶対知」は「現実性」をもてないからだ。「現実性」をもてなければ「真実性」も充分に明らかにできない。(58-59頁)
☆かくて「絶対知」自身が一度「普通の意味の知識」(or「普通の意識」or「普通の認識」)の立場に立って、それ自身の性格にしたがって次第に「絶対知」まで上ってゆかねばならない。
☆このような「媒介」を行わずに、突如として「絶対知」の哲学を展開しても、なんら「現実性」をもたない。
☆したがって「真の哲学」(or「絶対知」or「哲学的認識」)が展開されるためには、どうしても『精神現象学』が必要となる。

★「普通の認識」は真の意味の「精神」でなく、「精神の現象」たるにすぎない。だがその「現象」をほかにしては「精神」自身も現れることができない。(59頁)
☆「現象」だからといって、「普通の認識」をおろそかにできない。
☆「学一般の知」=「絶対知」の「生成」こそは『精神現象学』が叙述するところのものである。「絶対知」(「絶対の他在のうちに純粋に自己を認識すること」)が、どのようにして生まれるかを叙述するのが『精神現象学』だ。
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