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「全共闘運動」(1968-1970):「自己否定」の立場は倫理的要請だ!「自己否定」の立場をとる者が、「権力」or「体制」を破壊できず敗北して、「自己否定しない」(「自殺しない」)のは倫理的裏切りだ!

2024-04-20 08:41:17 | 日記
(1)
全共闘運動の「自己否定」(「権力」or「体制」に「加担」する自己を否定する)の立場は倫理的要請だった。(Cf. 「権力」に従うor「体制」の中で生きることor生活すること自体が、すでに「加担」だ。)そして「自己否定」の立場をとる者が、「権力」or「体制」を打倒できず敗北して、その主義に殉じない(「自己否定しない」or「自殺しない」)のは倫理的裏切りだ。「自己否定」の倫理的帰結は「自殺」だ。「自己否定」を言いながら、「権力」への敗北後、生き続けることは、「棄教」であり、倫理的要請に反する「恥」or「罪」だ。
《感想》「権力」or「体制」は、当時、「悪」とされた。当時、「私」は18-21歳だった。

(2)
何年かたって(40歳代)、同級生のKから「お前などは高校の時に退学になればよかったのだ。O先生たちが、かばったから卒業できたのだ!」と偉そうに言われ、全く腹が立った。Kは、お前が「自己否定」と言うなら、高校を退学させられて当然で、その後「死ねばいいのだ」と言ったのだ。だが「死ぬ」のは私が決めるので、K に決められる筋合いでないので「私は腹が立った」。

(3)
「権力」or「体制」への敗北後、全共闘運動の「自己否定」の立場を徹底したならば、私は「自殺」した方が、「自己否定」の倫理的帰結として分かりやすかったのに、生き続けた。
Cf. 私の信頼していた同級生は21歳(1970年)で自殺した。合掌。悲しく残念だった。

(3)-2
生き続け70歳代となった私は、バカバカしい限りだ。「自己否定」と言ったのにかかわらず、その倫理的要請を捨て、つまり「棄教」し生き続けたのは、バカバカしい限りだ。
《感想1》はるばる生きてきて、長い50年以上だった。「全共闘運動」(1968-1970)(19-21歳)は昔の出来事となった。
《感想2》今、そろそろ死を現実的に考える。「無」から生まれ出て「意識」(超越論的主観性)となり、また「無」にかえると予測される。この世は「夢or幻」だ!Cf.  “Row, row, row your boat, gently down the stream. Merrily, merrily, merrily, merrily, life is but a dream. ”

(4)
「自己否定」したのに、「権力」or「体制」を倒せず、その時点で「自殺」すべきだったのに、「私」は生き続けた。そのような自分を「恥」と思い続けた。
《感想》ただし「私」の心の内を知る者は、まずいない。主観的な「倫理的」自己評価はきわめて「個人的」問題だ。その点は安心だ。
(4)-2
私は、やはり「生きたい」と思い、言わば「棄教」の「恥」を忍んで、生き続けてきた。

(5)
全共闘運動参加者は「自己否定」と言いながら、「権力」or「体制」に敗北した時点で、全員「自殺」すれば、わかりやすかった気がする。全共闘運動は、「倫理」運動としては、「気にいらない」帰結となった。(全共闘運動参加者の全員が「自殺」しなかったからだ!)

《感想1》だが人間は「人は人に対して狼」(ホッブズ)つまり「誰もが悪い奴ばかり」なので、一方で「権力」or「体制」が存在しなければ「殺し合い」しかない。
《感想1- 2》他方で「権力」or「体制」は、圧制・抑圧・暴力・恐怖・収奪・忖度・不条理・残虐の根源でもある。
《感想1-3》「権力」or「体制」に問題があるなら、「自己否定」と言わず、「殺し合い」を防ぐための「理性的」にコントロールしうる(天賦人権or基本的人権を重視しうる)「権力」or「体制」の樹立をめざすという方法もある。
《感想1-4》また「権力」or「体制」によって、社会の「平和」・「安全」・「繁栄」が維持されるという面がある。つまり「権力」or「体制」は「必要悪」という面がある。

《感想2》「子供が親より先に死ぬこと」は「親不孝」だから、自分(19-21歳)が「自殺」せず生き続けてよかった面もある。
《感想3》もちろん「生きる」ことそれ自身が戦いだった。長い困難な人生だ。Cf. 「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」!

《感想4》「わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です/(あらゆる透明な幽霊の複合体)/風景やみんなといつしよに/せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける/因果交流電燈の/ひとつの青い照明です/(ひかりはたもち その電燈は失はれ)」(宮沢賢治『春と修羅』「序」抄)
★この詩に「共感」するが「みんなといっしょに」明滅できたこの詩作者は「幸福」だったろう。彼は「みんな」と言っているから「いっしょ」に明滅できる多くの者たちがいたのだ。
★残念なことに「私」には「いっしょに」明滅できる「みんな」は「いない」わけではなかったが、「数が少なすぎた」。
★しかし「いっしょに」明滅できる者が「一人」でもいたorいることは「幸福」だorだった。
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