※清水克行『室町は今日もハードボイルド、日本中世のアナーキーな世界』2021年:第1部「僧侶も農民も!荒ぶる中世人」(「自力救済」)
第1部第3話「職業意識のはなし、無敵の桶屋」
(1)商工業者の町・堅田
(a)近江の堅田は確かに海賊の町であるが、海賊は生業(ナリワイ)の一部分であって、全体としては、堅田は商工業者の町である。堅田の一向宗(浄土真宗本願寺教団)寺院、本福寺の門徒、あるいは念仏講(月1回)の幹事には、商工業者が並ぶ。研屋(トギヤ)、油屋、桶屋、麹屋(コウジヤ)、船大工、鍛冶屋、豆腐屋、紺屋(コウヤ)、猟師など。堅田は当時、国内有数の商業集落だった。
(2)サムライも顔負けの武勇と胆力を誇る「イヲケノ尉(ジョウ)」(桶屋のおじさん)!
(b)さて堅田には強烈な武勇伝を持つ「堅田イヲケノ尉(ジョウ)」と呼ばれた人物がいた。「イヲケ」(結桶ユイオケ)は桶屋、「尉(ジョウ)」は老夫という意味なので、「イヲケノ尉」は桶屋のおじさんといった程度のニックネームだ。彼は「相撲(スマイ)の行司」でもあり力自慢のヤクザものを束ねる興行主のような存在だった。また彼は「透波(スッパ)の手柄師(テガラシ)」つまり盗賊団のひときわ腕の立つ男だった。さらに彼には戦の心得もあった。
(c)1465年、比叡山延暦寺の僧兵150人が、一向宗の大谷本願寺を壊滅させた。(寛正の法難。)この時、「イヲケノ尉」は偶然現場にいて、第8世宗主蓮如を救い出した。大谷本願寺を襲った者の中には、便乗して火事場泥棒的・愉快犯的に破壊・略奪を行う連中が多数いた。「イヲケノ尉」は彼らを威圧して追い払った。
(d)サムライも顔負けの武勇と胆力を誇る「イヲケノ尉」のような存在が、この時代の町や村にはゴロゴロいた。彼らの多くは商工業者(商人・職人)だった。
(3)「中世」には、商人・職人(工商)を卑しい職業とする意識は微塵もない!
(e)「中世」には江戸時代的な「士農工商」の身分秩序はない。
(e)-2 さらに商人・職人(工商)について言えば、不況(飢饉)のときであっても、安い物価と人件費を利用して原料や労働力を仕入れ、裕福な者に売れば、利益をあげられる。だから商人・職人は手堅い仕事とされた。
(e)-3 堅田の一向宗(浄土真宗本願寺教団)寺院、本福寺は「商人・職人を檀家に持てば、頼りになる」と言う。
(e)-4 要するにこの時代(「中世」)、商人・職人(工商)を卑しい職業とする意識は微塵もない。
(f) 「侍」(「士」)は「主人から施された飯で口を汚し、主人のそばに控えて冷たい板敷きをただ温めるしか能がない」とけなされる。
(f)-2 これに対し諸国の百姓(一般庶民)のうちには「主人をもたない」者が多くいる。(とりわけ商人・職人!)
(g)豊臣秀吉の一代記『太閤記』などの影響もあって、戦国時代の人々は誰もが「百姓身分から抜け出して、支配階層である武士身分に上昇したい」という憧れを持っていたという先入観が強いが、これは、誤りだ。
(g)-2 「中世」の人々にとって、農民や百姓は虐げられた身分でなかった。彼らは武士を必ずしも尊敬したり、羨ましくは見ていなかった。まして「士農工商」の身分序列意識など持っていなかった。
第1部第3話「職業意識のはなし、無敵の桶屋」
(1)商工業者の町・堅田
(a)近江の堅田は確かに海賊の町であるが、海賊は生業(ナリワイ)の一部分であって、全体としては、堅田は商工業者の町である。堅田の一向宗(浄土真宗本願寺教団)寺院、本福寺の門徒、あるいは念仏講(月1回)の幹事には、商工業者が並ぶ。研屋(トギヤ)、油屋、桶屋、麹屋(コウジヤ)、船大工、鍛冶屋、豆腐屋、紺屋(コウヤ)、猟師など。堅田は当時、国内有数の商業集落だった。
(2)サムライも顔負けの武勇と胆力を誇る「イヲケノ尉(ジョウ)」(桶屋のおじさん)!
(b)さて堅田には強烈な武勇伝を持つ「堅田イヲケノ尉(ジョウ)」と呼ばれた人物がいた。「イヲケ」(結桶ユイオケ)は桶屋、「尉(ジョウ)」は老夫という意味なので、「イヲケノ尉」は桶屋のおじさんといった程度のニックネームだ。彼は「相撲(スマイ)の行司」でもあり力自慢のヤクザものを束ねる興行主のような存在だった。また彼は「透波(スッパ)の手柄師(テガラシ)」つまり盗賊団のひときわ腕の立つ男だった。さらに彼には戦の心得もあった。
(c)1465年、比叡山延暦寺の僧兵150人が、一向宗の大谷本願寺を壊滅させた。(寛正の法難。)この時、「イヲケノ尉」は偶然現場にいて、第8世宗主蓮如を救い出した。大谷本願寺を襲った者の中には、便乗して火事場泥棒的・愉快犯的に破壊・略奪を行う連中が多数いた。「イヲケノ尉」は彼らを威圧して追い払った。
(d)サムライも顔負けの武勇と胆力を誇る「イヲケノ尉」のような存在が、この時代の町や村にはゴロゴロいた。彼らの多くは商工業者(商人・職人)だった。
(3)「中世」には、商人・職人(工商)を卑しい職業とする意識は微塵もない!
(e)「中世」には江戸時代的な「士農工商」の身分秩序はない。
(e)-2 さらに商人・職人(工商)について言えば、不況(飢饉)のときであっても、安い物価と人件費を利用して原料や労働力を仕入れ、裕福な者に売れば、利益をあげられる。だから商人・職人は手堅い仕事とされた。
(e)-3 堅田の一向宗(浄土真宗本願寺教団)寺院、本福寺は「商人・職人を檀家に持てば、頼りになる」と言う。
(e)-4 要するにこの時代(「中世」)、商人・職人(工商)を卑しい職業とする意識は微塵もない。
(f) 「侍」(「士」)は「主人から施された飯で口を汚し、主人のそばに控えて冷たい板敷きをただ温めるしか能がない」とけなされる。
(f)-2 これに対し諸国の百姓(一般庶民)のうちには「主人をもたない」者が多くいる。(とりわけ商人・職人!)
(g)豊臣秀吉の一代記『太閤記』などの影響もあって、戦国時代の人々は誰もが「百姓身分から抜け出して、支配階層である武士身分に上昇したい」という憧れを持っていたという先入観が強いが、これは、誤りだ。
(g)-2 「中世」の人々にとって、農民や百姓は虐げられた身分でなかった。彼らは武士を必ずしも尊敬したり、羨ましくは見ていなかった。まして「士農工商」の身分序列意識など持っていなかった。