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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ロ「信仰」:「現実の国」の「対立」を「越え包むもの」を捉える (1)「純粋透見」・(2)「信仰」!

2024-08-18 21:10:41 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ロ「信仰」(276-278頁)
(65)「教養の世界」は一方で「現実の世界」を形づくるほかに、他方で「信仰の世界」をも含む!「現実意識」に対して、「純粋意識」がある!
★(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」としての「教養の世界」は一方で「現実の世界」(a「教養と現実の国」)を形づくるほかに、もう一つ「信仰の世界」(b「信仰と純粋透見」)をも含む。(276頁)
☆「教養の世界」である「現実の世界」は、「もろもろの対立①②③」が「疎外」によって「自分自身」から「自分とちがった、自分自身に反したもの」になるのだが、そうだとすると当然「諸対立をこえた統一」があるはずだ。この「統一」をつかむものとして、いままでの「現実意識」に対して、「純粋意識」がなくてはならない。(276-277頁)

Cf. 「教養の世界」(「現実の国」)は徹底的に「自己疎外的」だ!①《「国権」が「財富」に、「財富」が「国権」に》、②《「善」が「悪」に、「悪」が「善」に》、③《「高貴」が「下賤」に、「下賤」が「高貴」に》転換し、「疎外」する世界!(266頁)

Cf. 「4元素」のうちのひとつとしての「地」の特徴は、その他の3つの元素(「風」・「水」・「火」)の結合たるところにあるが、「風」にあたる「国権」・「高貴」・「善」と、「水」にあたる「財富」・「下賤」・「悪」とが、「火」にあたる「エスプリ」あるいは「精神」(「ガイスト」)の力によって、相互に転換し、生滅変化してやむことのない場面が「地」にあたる「現実の国」(「自己疎外的精神の世界」・「教養の世界」)だ。(276頁)
☆「この世」に生まれて誰しもが望むものは「権力」と「財富」だ。どちらを得るにも多大の犠牲を払うことを必要とするが、粒々辛苦して得てみれば、🈩《「権力」(「国権」)は「財富」、「財富」は「権力」(「国権」)》、そして🈔《「高貴」は「下賤」、「下賤」は「高貴」》、また🈪《「善」は「悪」、「悪」は「善」》だから、すべては「空の空」だ。(276頁)

(65)-2 「現実の世界」に属さない「高次」の「純粋意識」は、「もろもろの対立」(①「国権」)と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」)などを「越え包むもの」をとらえる! 
★ここでいう「純粋意識」は、「現実の世界」(or「現実意識」)における「もろもろの対立」(①「国権」)と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」)などを「越え包むもの」(or「統一」)をとらえるものとして一段と「高次」の「純粋意識」だ。(277頁)
☆今までも、「善悪を区別するもの」として「純粋意識」が考えられたが、それはまだ「国権」と「財富」に関するものとして、「現実の世界」に属するものだった。(277頁)

Cf. 「教養の世界」が①「現実意識」に映じたさいの対立は「国権」(「風」)と「財富」(「水」)の対立、すなわち「現実の世界」における「客観的な対立」だ。さらに「教養の世界」において、②「純粋意識」すなわち「主体的な内面的な思惟」もあり、これは「いつも自己同一を保つもの」(「風」)は「善」とし、「自己同一を保たず、いつも他となって変ずるもの」(「水」)は「悪」とするという意味において、「善」・「悪」の規定を行う。(262頁)

(65)-2-2 「もろもろの対立」(①②③)を「越え包むもの」をとらえる《「現実の世界」に属さない「高次」の「純粋意識」》:(1)「否定的な純粋意識」すなわち「純粋透見」と、(2)「肯定的な純粋意識」すなわち「信仰」! 
★「もろもろの対立」(①②③)などを「越え包むもの」をとらえる《「現実の世界」に属さない「高次」の「純粋意識」》には、(1)「否定的な純粋意識」と、(2)「肯定的な純粋意識」とがある。(277頁)
★ (1)「否定的な純粋意識」は、🈩「国権」を否定して「財富」とし、「財富」を否定して「国権」とし、そして🈔「高貴」を否定して「下賤」とし、「下賤」を否定して「高貴」とし、また🈪「善」を否定して「悪」とし、「悪」を否定して「善」とする。(277頁)
★これに対し、《「現実の世界」に属さない「高次」の「純粋意識」》のうち(2)「肯定的な純粋意識」は、このような「相互転換」(🈩・🈔・🈪)に媒介されて「対立」の底に彼方にある「統一的実在」を把握する。(277頁)
★《「現実の世界」に属さない「高次」の「純粋意識」》のうち(1)「否定的な純粋意識」は、純粋意識の「活動」の側面であり、「純粋透見」だ。(277頁)
☆(2)「肯定的な純粋意識」は、「ある一定の統一」を取りだすものだから、純粋意識の「内容」の側面であり、「信仰」だ。(277頁)
★こうして(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」は、a「教養と現実の国」(「現実の世界」)に続いて、b「信仰と純粋透見」という段階が設定される。(277頁)

(65)-2-3 「現実の世界」に属さない「純粋意識」は、(1)「純粋透見」(純粋意識の「活動」の側面)と、(2)「信仰」(純粋意識の「内容」の側面)の両面からなる!
★(「現実の世界」に属さない「高次」の)「純粋意識」は(1)「純粋透見」(「否定的な純粋意識」すなわち純粋意識の「活動」の側面)と、(2)「信仰」(「肯定的な純粋意識」すなわち純粋意識の「内容」の側面)の両面からなる。(277頁)
☆「もろもろの対立」(①「国権」と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」との対立)について、「教養」を通じて得られた「精神」Geistあるいは「エスプリ」は、かかる「対立」が固定したものでなく、「いつも「反対に転換する」(🈩・🈔・🈪)ことを見透かしている」から、それは(1)「純粋透見」であり、そうして「対立」を否定するものであるところからして、「自我」あるいは「主体」の働きだ。(277-278頁)
☆ヘーゲルは「自我」をもって「否定の働き」にほかならないと考える。(278頁)

★「もろもろの対立」(①「国権」と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」との対立)が「相互に転換する」以上、「もろもろの対立」は、「対立を越え包む超越的統一」に帰する。この「超越的統一」は本来的には「概念」だ。(278頁)
☆しかしこの「超越的統一」は、ここではまだ、「もろもろの対立」(①②③)という「現実」からかけ離れた「統一」にすぎぬものとしてとらえられているから、「概念」そのものでなく、「表象」の形式におけるものだ。これが(2)「信仰の天界」を与える。(278頁)
☆これに対して(1)「透見」(「純粋透見」)は、「自我の『否定の働き』」として「地上」にとどまる。(278頁)
★かくて「教養の世界」は「現実の国」を含むとともに、(1)「透見の世界」と(2)「信仰の世界」を含む。(278頁)
Cf. こうして(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」は、a「教養と現実の国」(「現実の世界」)に続いて、b「信仰と純粋透見」という段階が設定される。(277頁)

《参考》  ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

《参考(続)》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
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『パシフィックフィルハーモニア東京 第168回定期演奏会』東京芸術劇場《ピアノ・指揮》横山幸雄(2024/08/17):ベートーヴェン「ピアノ協奏曲」第1番・第2番・第3番! 

2024-08-18 01:17:34 | 日記
★ピアノ協奏曲第1番 作品15(1801年出版、31歳)
ハイドン(1732-1809)の下で学ぶべくベートーヴェン(1770-1827逝去57歳)がボンからウィーンに居を移したのが1792年(22歳)、交響曲第1番を出版したのが1800年(30歳)だ。ベートーヴェンの初期の創作はモーツァルトの影響を強く受けている。

★ピアノ協奏曲第2番 作品19(1801年出版、31歳)
ベートーヴェンの5曲のピアノ協奏曲のなかでは本作は最初に書き始められた。彼はこの作品を何度も改訂した。オーケストラの編成が第1番より小規模だ。Cf. 本人は書簡で「あまり最良の出来とは言えない」と述べている。

★ピアノ協奏曲第4番 作品58(1806年完成、36歳)
ベートーヴェンの難聴は悪化するが、彼は精神の危機を乗り越える。第4番のピアノ協奏曲はその頃の創作だ。公の初演は1808/12/22(38歳)。その演奏会では「交響曲」第5番&第6番、「合唱幻想曲」の初演も行われ、音楽史に残る演奏会だった。

《感想》アンコールで、ピアノ、ヴァイオリン、チェロの3人の演奏が、「ピアノ協奏曲の原型」(横山幸雄氏の説明)としてなされた。とてもよかった。

Cf. ベートーヴェンの交響曲(作曲年):「第1番」(1799-1800, 29-30歳)、「第2番」(1801-1802, 31-32歳)、 「第3番(英雄)」(1803-1804, 33-34歳)、「第4番」( 1806, 36歳)、「第5番(運命)」(1807-1808, 37-38歳)、「第6番(田園)」(1808, 38歳)、「第7番」(1811-1813, 41-43歳)、「第8番」(1812, 42歳)、「第9番(第九)」(1822-1824, 52-54歳)
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