DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ホ「フランス革命」:「テロリズム」は「個的自己」の「絶対否定」として「至高の教養」だ!

2024-08-31 10:43:52 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ホ「フランス革命」(292-294頁)
(71)「啓蒙」の立場では「世界は『自己』のためにある」、そして「自我」は「絶対自由」を持ち、これが実行に移され「フランス革命」が到来する!
★「啓蒙」の立場からすれば、「世界は『自己』のためにある」のだから、「自我」は当然「絶対自由」を持つことになり、これが実行に移されることにより、アンシャン・レジームの制度が打破される、ここに「フランス革命」が到来する。(292頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄):(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)!

《参考》「啓蒙」の主張は、①「理神論」と②「感覚的唯物論」と③「相対論」・「功利主義」との3つだったが、最後のもの(③「相対論」・「功利主義」)は、最初の2つ(①「理神論」と②「感覚的唯物論」)の「綜合」だった。だから「啓蒙」の立場はけっきょく、③「相対論」・「功利主義」に、つまり③「有用性」の立場に帰着する。(292頁)
☆そこでこの③「有用性」の立場から「『有用なもの』の世界」が立てられることになるが、人間はこの③「相対性」(「相対論」)・「有用性」を自覚的に駆使する。これは結局のところ、「世界」は「自己に対するもの」、「自己のためにあるもの」ということを意味する。かくてそこに「絶対自由」の立場が生じる。「フランス革命」はこの「絶対自由」の立場を「現実化」したものにほかならない。(292頁)

(71)-2 「抽象的」な「絶対自由」においては、「組織」をもってする活動はすべて「拒否」される!ルソーは「代議制度」を否定した!「行政」も「司法権」・「裁判」も、「組織」をもってするほかないので否認される!「抽象的」な「絶対自由」は「テロリズム」に帰結する!「テロリズム」は「啓蒙思想」に胚胎する!
★では「フランス革命」はいかなる意義をもっているのか?さて「絶対自由」といっても最初は「抽象的」なものであって、「個的自己」が「絶対者」であると考えられているので、「組織」をもってする活動はすべて「拒否」される。(292-293頁)
☆例えばルソーは「『立法権』は国民各自が自分自身で執行すべきものであって『代理』されることはできず、そうすれば『自由』はなくなるから、自分で立法に参与すべきである」と言って、「代議制度」を否定した。これではフランスのような「大国」ではけっきょく「立法」はおこなわれえないことになる。(293頁)
☆また「行政」も、「司法権」・「裁判」も、「組織」をもってするほかないので、これらも実際上は否認される。(293頁)

★そこでこのような「抽象的」な「絶対自由」をそのまま実行に移そうとすれば、あらゆる「組織」を拒否するから「テロリズム」が不可避だ。(293頁)
★「テロリズム」は「啓蒙思想」に胚胎する。なぜならそもそも「至高存在」とは、「あらゆるものを否定する」もの、つまり「絶対否定」を要求するものだが、このことを、身をもって体験させたものが即ち「テロリズム」だからだ。(293頁)

《参考1》「信仰」が「『パン』はクリストの肉」、「『葡萄酒』はクリストの血」、「『聖像』はクリストの御姿」だとするのに対して、「啓蒙」は、「絶対実在」はそんなもの(「パン」、「葡萄酒」、「聖像」)でなく、「見ることも聞くこともできず、ただ『思惟』されうるにすぎぬ『至高存在』」だと主張するが、ここに「啓蒙」の①「理神論」がある。(288頁) 
《参考2》「啓蒙」は(※①「理神論」の立場から)、「信仰」が「聖像」をあがめるときに、そんなことは「迷信」で、「『至高存在』は見ることも聞くこともできぬ『超越的なもの』である」と言う。(289頁)

(71)-3 「テロリズム」はやがて終わり、人々はまた「組織」のうちにかえる!「立憲君主政治」!
★しかし「テロリズム」はむろん耐えがたいものだ。だからそれはやがて終わり、人々はまた「組織」のうちにかえる。人々は「国家社会」の成り立つためには「自己否定」(「個的自己」の否定)の必要であることを悟って、再びナポレオンのもとに君主政治を再建する。(293頁)
☆それによって生ずる現実政治における変化は、それまでの「絶対君主政治」が「立憲君主政治」になったということだ。(293-294頁)
☆ヘーゲルはこの「立憲君主政治」をもって、政治形態の発展は一応終わると考えている。(294頁)

《参考》さて「絶対自由」といっても最初は「抽象的」なものであって、「個的自己」が「絶対者」であると考えられているので、「組織」をもってする活動はすべて「拒否」される。(292-293頁)

(71)-4 「啓蒙」においては「絶対自由」の実行が「テロリズム」となる!人間が生活するにあたって「自己否定」((「個的自己」の否定))はいつも必要だ!「テロリズム」は「絶対否定」(※「個的自己」の「絶対的」な否定)の必要を、人間に身をもって体験させるので「至高の教養(※エスプリorガイスト)」だ!
★「テロリズム」は「啓蒙思想」に胚胎するが、ヘーゲルは「テロリズム」にもっと深い意味を認めようとする。(294頁)

Cf.1 「啓蒙」においては、③「有用性」の立場から「『有用なもの』の世界」が立てられることになるが、これは、「世界」は「自己に対するもの」、「自己のためにあるもの」ということを意味する。かくてそこに「絶対自由」の立場が生じる。「フランス革命」はこの「絶対自由」の立場を「現実化」したものにほかならない。(292頁)
Cf.2 「抽象的」な「絶対自由」をそのまま実行に移そうとすれば、あらゆる「組織」を拒否するから「テロリズム」が不可避だ。(293頁)

★およそ人間が生活するにあたって「自己否定」(「個的自己」の否定)はいつも必要なものだ。(294頁)
☆これまでの「教養の世界」((BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)もまさに「教養の世界」として、いろんな(※「個的自己」の)「否定」を含んでいた。例①「封臣」・「廷臣」は「奉公」をし「頌辞」を呈しなくてはならなかったし、また例②「信者」にも「苦行」・「断食」・「喜捨」などが必要だった。(294頁)

★しかしこれらはいずれも「テロリズム」ほどに徹底したものではないが、およそ人間が「この世」に生きるには「自己否定」(「個的自己」の否定)が必要であり、とくに「教養」を必要とする「近代的人間」の場合にはそうだ。(294頁)

★だが「テロリズム」こそは、「絶対否定」(※「個的自己」の「絶対的」な否定)の必要を人間に身をもって体験させるものだから、「テロリズム」は「至高の教養(※エスプリorガイスト)」だと、ヘーゲルは言う。(294頁)
☆このようにヘーゲルは「テロりズム」に深い意味を認めようとしている。(294頁)
☆なおこれは、「『奴』を訓練するものがけっきょくのところ『死』という絶対的主人の恐怖である」ことに、応じる。(294頁)
Cf. 「奴隷」は「主人」をおそれる(「畏怖」)!これは「死」をおそれることだ。いうことをきかないと「権力によって殺される」から、「奴隷」は「死」をおそれている。「奴」は「絶対的な恐怖」(「畏怖」)のなかに、「おそれとおののき」(「畏怖」)のなかにいる。(141頁)

《参考1》(「現実の世界」に属さない「高次」の)「純粋意識」は(1)「純粋透見」(「否定的な純粋意識」すなわち純粋意識の「活動」の側面)と、(2)「信仰」(「肯定的な純粋意識」すなわち純粋意識の「内容」の側面)の両面からなる。(277頁)
☆「もろもろの対立」(①「国権」と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」との対立)について、「教養」を通じて得られた「精神」Geistあるいは「エスプリ」は、かかる「対立」が固定したものでなく、「いつも「反対に転換する」(🈩・🈔・🈪)ことを見透かしている」から、それは(1)「純粋透見」であり、そうして「対立」を否定するものであるところからして、「自我」あるいは「主体」の働きだ。(277-278頁)
☆ヘーゲルは「自我」をもって「否定の働き」にほかならないと考える。(278頁)
☆「もろもろの対立」(①「国権」と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」との対立)が「相互に転換する」以上、「もろもろの対立」は、「対立を越え包む超越的統一」に帰する。この「超越的統一」は本来的には「概念」だ。(278頁)
☆しかしこの「超越的統一」は、ここではまだ、「もろもろの対立」(①②③)という「現実」からかけ離れた「統一」にすぎぬものとしてとらえられているから、「概念」そのものでなく、「表象」の形式におけるものだ。これが(2)「信仰の天界」を与える。(278頁)
☆これに対して(1)「透見」(「純粋透見」)は、「自我の『否定の働き』」として「地上」にとどまる。(278頁)
☆かくて「教養の世界」は「現実の国」を含むとともに、(1)「透見の世界」と(2)「信仰の世界」を含む。(278頁)
Cf. こうして(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」は、a「教養と現実の国」(「現実の世界」)に続いて、b「信仰と純粋透見」という段階が設定される。(277頁)

《参考2》人間が「個的自己」として存在する時代(※「ローマ帝国」・「中世」・「近世」・「啓蒙」・「フランス革命」・「ドイツロマン主義」の時代)では人間は「自己疎外」Entfremdung におちいる!「自己疎外」は結局、「教養」(※エスプリorガイスト)に至る!(256-257頁)
☆ここ(※「ローマ帝国」・「中世」・「近世」・「啓蒙」・「フランス革命」・「ドイツロマン主義」の時代)では
人間は「個的自己」として存在するが、人間は一度自分の「個別存在」を離れ、それを疎んじて、「自分のそとにある『普遍的なもの』」になり、これを通じて「真の自己」になるというように、「自分を形成する努力」即ち「『教養』Bildungの努力」を引き受けなくてはならぬということになる。かくて(BB)「精神」A「人倫」(古代ギリシャのポリス)に続くBという段階は、「自己疎外的精神、教養」と題される。(256-257頁)
☆さてギリシャ時代((BB)「精神」A「人倫」)とは違い、人間が「個的自己」として存在する時代(※「ローマ帝国」・「中世」・「近世」・「啓蒙」・「フランス革命」・「ドイツロマン主義」の時代)では、人間は「自己疎外」Entfremdung におちいる。「Entfremdung」とは、「自分にfremdなもの」、「自分に疎遠で外的であるもの」になることだ。つまり「自分から離れて、自分に疎遠なものになる」というのが「疎外」だ。(257頁)
☆「疎外」は苦しいことだが、その苦行を通じてのみ人間は「真の人間」にまで自分を高め形成することができるのだから、「自己疎外」は結局、「教養」Bildung(※エスプリorガイスト)に至り、それで(BB)「精神」A「人倫」c「法的状態」から以後(※つまり「ローマ帝国」・「中世」・「近世」・「啓蒙」・「フランス革命」・「ドイツロマン主義」の時代)は、ギリシャ時代((BB)「精神」A「人倫」a「人倫的世界」b「人倫的行為」)とはちがって、「人間はただ『教養』(※エスプリorガイスト)をうることによってのみ人間として存在したとみなすことができる」というように時代が変わっていると、ヘーゲルは解している。(257頁)
☆「近代社会」は、「古代社会」とちがって、「個的自己」への徹底が行われているから、「社会」と結びつくには人間は「自然性」を剥脱し否定しなければならず、そういう意味の「教養」Bildungをそなえたものでなくては「近代社会」、「近代国家」の一員たりえないと、ヘーゲルは言う。(257頁)
☆フランシス・ベーコン(1561-1626)は「知は力なり」と言ったが、この語はベーコン自身では「自然征服」のことに関するが、ヘーゲルはこの語を転用して、「近代社会」の特徴(「教養」Bildungをそなえたものでなくては人間は「近代社会」の一員たりえない)を示すものと解している。(257頁)

《参考3》「教養の世界」は徹底的に「自己疎外的」だ。(「自己疎外的精神の世界」!)(266頁)
☆「教養の世界」は、①《「国権」が「財富」に、「財富」が「国権」に》、②《「善」が「悪」に、「悪」が「善」に》、③《「高貴」が「下賤」に、「下賤」が「高貴」に》転換し、「疎外」する世界だ。(266頁)
☆そうして「対立するものを統一づけるもの」が、はっきりと出てきておればよいが、それはまだ出ていないで、ただいたずらに「一方が他方に転換する」だけだ。だからこの「教養(※エスプリorガイスト)の世界」の人間は「自己疎外の苦悩」をなめざるをえない。(266頁)

《参考3-2》「自己疎外」(①②③)ゆえに、「ガイスト」Geist(「エスプリ」esprit)すなわち「教養」が養われ、「絶対に対立するもの」が「一つになる」!「疎外」を表現したものという見地から、ヘーゲルはディドロの作品『ラモウの甥』を活用している!(266-267頁)
☆しかしこういう極端な「分裂」(「教養の世界」の「自己疎外」①②③)を通じて「絶対に対立するもの」が「一つになる」ところにこそ、ヘーゲル独自の「ガイスト」Geist が躍動してくる。「ガイスト」Geistは、フランス語の「エスプリ」espritに近いものだ。(266頁)
☆「エスプリ」espritとは、「ちょっと普通では関係のつかないような二つのもの」の間に「奇想天外な関係」を見つけるような能力のことだ。だから「エスプリ」に富んでいるのは、「気がきいている」ことであって、悪くすると「駄じゃれを弄する」ことにもなる。(266-267頁)
☆ヘーゲルは「エスプリ」espritの「よい点」を生かし、かくて「自己疎外」(①②③)こそが、人間に「エスプリ」espritすなわち「ガイスト」Geistを養い、「教養」を与えると言う。(267頁)

《参考4》「現実の世界」に属さない「純粋意識」は、(1)「純粋透見」(純粋意識の「活動」の側面)と、(2)「信仰」(純粋意識の「内容」の側面)の両面からなる!(277-278頁)
☆(「現実の世界」に属さない「高次」の)「純粋意識」は(1)「純粋透見」(「否定的な純粋意識」すなわち純粋意識の「活動」の側面)と、(2)「信仰」(「肯定的な純粋意識」すなわち純粋意識の「内容」の側面)の両面からなる。(277頁)
☆「もろもろの対立」(①「国権」と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」との対立)について、「教養」を通じて得られた「精神」Geistあるいは「エスプリ」は、かかる「対立」が固定したものでなく、「いつも「反対に転換する」(🈩・🈔・🈪)ことを見透かしている」から、それは(1)「純粋透見」であり、そうして「対立」を否定するものであるところからして、「自我」あるいは「主体」の働きだ。(277-278頁)
☆ヘーゲルは「自我」をもって「否定の働き」にほかならないと考える。(278頁)
☆「もろもろの対立」(①「国権」と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」との対立)が「相互に転換する」以上、「もろもろの対立」は、「対立を越え包む超越的統一」に帰する。この「超越的統一」は本来的には「概念」だ。(278頁)
☆しかしこの「超越的統一」は、ここではまだ、「もろもろの対立」(①②③)という「現実」からかけ離れた「統一」にすぎぬものとしてとらえられているから、「概念」そのものでなく、「表象」の形式におけるものだ。これが(2)「信仰の天界」を与える。(278頁)
☆これに対して(1)「透見」(「純粋透見」)は、「自我の『否定の働き』」として「地上」にとどまる。(278頁)
☆かくて「教養の世界」は「現実の国」を含むとともに、(1)「透見の世界」と(2)「信仰の世界」を含む。(278頁)
Cf. こうして(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」は、a「教養と現実の国」(「現実の世界」)に続いて、b「信仰と純粋透見」という段階が設定される。(277頁)

《参考5》ヘーゲル『精神現象学』では、(ア)「教養」Bildung は「自己疎外的精神」として、《「人倫」という「真なる精神」》と、《「道徳性」という「自らを確信した精神」》との中間的もしくは過渡的段階としての位置を与えられている。「教養」は「精神の自己疎外態」である。(イ)「教養」はヘーゲルにおいて否定的な評価を受けており「衰弱したエリート趣味」、「技巧的な知的浮薄」ともされる。(ウ)ヘーゲル『精神現象学』の歴史哲学によれば「ギリシャ的ポリス」および「ローマ的法治国家」と、「カントやゲーテによって代表される近代ドイツ」との中間にあるのが「教養」であり、「教養」は「18世紀フランスの『哲学者たち』と革命の時期」にあたる。(エ)ヘーゲルの思考の特徴である「3段階発展図式」において、「教養」は「第2段階」すなわち「対自」・「反省」・「本質」・「外化」・「分裂」・「市民社会」などに対応するものだ。つまり「教養」は「否定性」の契機であり、「否定」の機能を果たしつつ、積極的な意義を含む。(『ヘーゲル事典』弘文堂2014年)

(71)-5 「テロリズム」が体験させる「絶対否定」(※「個的自己」の「絶対的」な否定)によって、「『個別』と『普遍』とが絶対的に帰一」し、「絶対否定が絶対肯定」(※「個的自己」の「絶対的」な否定は、「個的自己」の「絶対的」な肯定だ)となり、「非連続の連続」ということも今や可能になり、「『教養』(※エスプリorガイスト)の世界」の特徴であった「自己疎外」はここに克服される!
★およそ人間が「この世」に生きるには「自己否定」(「個的自己」の否定)が必要であり、とくに「教養」を必要とする「近代的人間」の場合にはそうだ。「テロリズム」こそは、「絶対否定」(※「個的自己」の「絶対的」な否定)の必要を人間に身をもって体験させるものであり、「テロリズム」は「至高の教養」だとヘーゲルは言う。(294頁)
★かくて「テロリズム」が体験させる「絶対否定」(※「個的自己」の「絶対的」な否定)によって、「『個別』と『普遍』とが絶対的に帰一」し、「非連続の連続」ということも今や可能になり、「『教養』(※エスプリorガイスト)の世界」の特徴であった「自己疎外」はここに克服される。(294頁)

★しかし、むろん「非連続が連続」、「絶対否定が絶対肯定」ということは、「政治経済の現実面」においては完全に実現されうるものではない。政治経済の現実面においては、このような「理法」(※「非連続が連続」、「絶対否定が絶対肯定」)がそのまま実現されることを妨げるいろんな偶然的事情がある。(294頁)

《感想》「テロリズム」すなわち「至高の教養(※エスプリorガイスト)」において体験させる「絶対否定が絶対肯定」とは、「個的自己」の「絶対的」な否定が、「個的自己」の「絶対的」な肯定になるということだ。これによって「自己疎外」は克服される。

★かくて「非連続が連続」、「絶対否定が絶対肯定」ということは、つまりこのような「理法」は、「政治経済の現実面」ではなく、ただ「精神的に」実現されるだけだ。(294頁)
☆すでに「絶対否定」(※「個的自己」の「絶対的」な否定)を、(※「テロリズム」において)身をもって体験した人間は、「純粋に精神的な国」(ドイツ)(※ドイツのロマンティスィズム)のうちに住みうるようになっている。(294頁)

《参考1》「知覚」の段階において「個別と普遍」、「一と多」、「即自と対他」、「自と他」といった対立が、互いに他に転換して切りはなすことのできないものであることが、明らかになった。(109頁)

《参考2》「生命」(「客観的即自的な無限性」)の立場では「対立」は、先に述べた「個別と普遍」、「一と多」、「即自と対他」、「自と他」、「力と発現」などは、「統一と区別」、「時間と空間」、「連続と非連続」等とも、さらには「過程と形態」、「機能と組織」とも呼ばれる。(130頁)

《参考3》さらに「生物」が感受し反応し再生するのは「過程」として「時間的」であり、そのような過程ないし機能を営むことにより、「生物」が自分にいろんな分肢を与え、自分を「組織」づけるのは「空間的」たるゆえんだ。そうして「空間的」たることは「非連続的」、「時間的」たることは「連続的」だ。(131頁)

《参考4》かくて一つの「個体」が独立の「個体」としておのれの生命活動を営み、おのれを形態づけ組織していくことは、「生物界全体の生命活動」が「個体」としておのれ自身をあらわしていくことだ。したがって「一つの個体が他の個体から非連続的に独立している」ということは、裏からいうと「他の生きものとの間に連続をなすし、そこに運命の交流がある」ということだ。(132頁)
☆「統一的普遍的生命」(「生物界全体の生命活動」)が、それぞれの「個体」のうちにおのれをあらわすというのは、「生物界全体」も「個体と普遍」、「空間と時間」、「連続と非連続」というもろもろの対立をもち、かかる対立が成立しながら相互に転換し「無限性」を実現していくことだ。(132頁)

《参考5》「観察的理性」における「観察」:「連続と非連続の弁証法」から脱け出すために「観察的理性」は「対立を統合したもの」、すなわち「法則」をつかもうとする!(167頁)
☆さて「本質的なもの」とは、「それぞれのもの」を「それぞれのもの」として、「他のもの」から「分離」する規定だ。ここ(「観察的理性」における「観察」)にも、(A)「意識」(「対象意識」)の段階におけるⅡ「知覚」の場合の「連続と非連続の弁証法」が起きてくる。(167頁)
☆「あるものの特色」(「本質」)とは、「そのもの」を「他のもの」から区別し「分離」するゆえんのものだ。しかしこの「分離」(※「そのもの」と「他のもの」との「分離」)も同時に「結合」(※「そのもの」と「他のもの」との「結合」)だ。例えば、「赤」(「本質」)といっても、もし「すべてのものが赤であれば、赤というものもなくなってしまう」ので、「赤でないもの」との関係においてこそ、「赤」(「本質」)は存在しうる。(167頁)
☆かくて「自」と「他」との「非連続」のほかに、「連続」も考慮することが必要だ。かくて「観察的理性」((C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」)の「観察」は「連続と非連続」、「自と他」というような「対立」したものの「弁証法」に巻き込まれてしまう。(167頁)
☆「観察的理性」は、これ(「連続と非連続」、「自と他」というような「対立」したものの「弁証法」)から脱け出ようとして「対立を統合したもの」、すなわち「法則」をつかもうとする。ここに「理性」は、(A)「意識」(「対象意識」)の段階におけるⅢ「悟性」に相応する段階に到達した。けだし「法則」は「悟性」によって定立されるものだからだ。(167頁)

《参考6》「人格」と「人格」との間には、「結合あるいは肯定」のほかに「分離あるいは否定」・「否定の隔たり」があり、「連続」のほかに「非連続」がある。ところがこの「非連続」の面を忘れてしまって、「連続」の面だけみてとり、そして「他人」のうちに「自分自身の満足」を求めようとするのが「快楽(ケラク)」の段階だ。かくて「快楽(ケラク)」とはあからさまに言えば男女間の「愛欲」だ。(196頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする