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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ニ「啓蒙」(その1):「信仰」批判は誤りだ!「信者」は「絶対精神」・「絶対実在」を信じる!

2024-08-26 14:05:23 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ニ「啓蒙」(その1)(285-287頁)
(69)「信仰」(「彼岸」・「客体」・「内容」)と「純粋透見」(「此岸」・「主体」・「形式」)は非常に似たものだが、似たものほど喧嘩するものだ!
★「啓蒙」の運動は「純粋透見」にとって、その本質上、必要なものだ。(285頁)
☆ところで「純粋透見」も、「信仰」と同じように「教養の世界」からでてきたもので、両者の違いは「彼岸」(「信仰」)と「此岸」(「純粋透見」)、「客体」(「信仰」)と「主体」(「純粋透見」)、「内容」(「信仰」)と「働き」(「純粋透見」)というような「形式」にあるだけだ。(285頁)
☆「信仰」と「純粋透見」は非常に似たものだが、似たものほど喧嘩するものだ。「信仰」と「純粋透見」の間には激戦が展開される。(285頁)

Cf.  ヘーゲル『精神現象学』目次(抄): (BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)

★「啓蒙」は、「純粋透見」の成長過程で、この成長過程において「純粋透見」は「内容」を獲得するが、ただし「内容」はすべて「信仰」の方にある。(285頁)

★しかし「信仰」の「彼岸性」は、「純粋透見」にとってどうにも我慢のならないものだから、「純粋透見」は、おのずと「信仰」と衝突せざるをえない。(285頁)
☆それで「啓蒙の運動」はけっきょくのところ「信仰との戦い」ということにつきる。(285頁)

《参考1》「純粋透見」が良い意味でつまり本当の意味で「純粋」になるには、「個人的主観的」あるいは「主観的形式的」に「純粋」だという欠陥が是正されなくてはならない。「純粋透見」は、ある個人一個のものでなく、「公共化」されていかなくてはならない。(284頁)
☆「純粋透見」の「公共化」について、ヘーゲルはフランスの「アンシクロペディスト」(百科全書家)のことを念頭において、個人個人の「透見」が集大成されることによって「純粋透見」は次第に「成長をとげていく」と考える。(284頁)
☆「純粋透見」が「成長していく」とは、最初は「プライベイト」な、「主観的」なものであった「透見」が、「社会的に普及する」ということも意味するが、これが「啓蒙」にほかならない。(284頁)
☆「啓蒙」は、「純粋透見」をして「公共的」・「普遍的」・「客観的」・「内容的」(⇔「個人的」・「個別的」・「主観的」・「形式的」)なものにまで「成長」させる。「啓蒙」は、「純粋透見」にとって不可欠なものだ。(284頁)

《参考2》「純粋透見」はただの「働き」(「ただ見透す働き」)だから、「信仰」のように「内容」をもつものでなく、「形式的」なものにすぎない。(283頁)
☆また「働き」、ことに「否定の働き」は、ヘーゲルではいつも、「自由」をもって特徴とする「主体」のもの、すなわち「自我」のものだ。その点からすると、「純粋透見」の特徴は「自我性」だ。(283頁)
☆「純粋透見」の「自我性」と結びついているのは「現実性」であり「此岸性」だ。「純粋透見」は、「信仰」のように「彼岸にある実在」を想定しない。(283頁)
☆「純粋透見」は、「区別や対立」が「相互転換」をなすその「現実」にとどまる。(283頁)
☆かくて「純粋透見」(「近代的理性」)と「信仰」とは大変似たものだが、それだけに両者間にはやがて戦いが交えられることになる。(283頁)

《参考3》「教養の世界」((BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)は、「信仰の世界」と「透見の世界」(「自我の否定の働き」として「地上」にとどまる)という相反した世界、つまり「天上」と「地上」とを含むから、この点に関しても、また「相互転換」即ち「自己疎外」があり、したがって「自己疎外精神」であるということが、どこまでも「教養」の基本的性格だ。(278頁)

(69)-2 「啓蒙」は「民間信仰」とも衝突するが、この戦いは、ヘーゲルに言わせると、「純粋透見」が「信仰」から「内容」を得、「具体性」を獲得することだ! 
★さて「クリスト教」が「民間信仰」と結合したように、ヘーゲルが「信仰」(Cf. 「宗教」)と名づけたものも「民間信仰」を含む。(285頁)
☆たとえば、「クリスマスのサンタクロース」は「北欧童話」から出たもの、「聖ヨハネの祭り」は「夏至の祭り」であり、「聖マルチンの祭り」は「冬至の祭り」である。(285頁)

《参考》「聖ヨハネの祭り」は「バプテスマのヨハネ」の生誕を祝う。イエスの半年前に生まれ,イエスに洗礼を施した「バプテスマのヨハネ」(「洗礼者ヨハネ」)は,イエス・キリスト(12/25)及び聖母マリア(9/8)以外で、カトリックが生誕を祝う唯一の人物だ。「聖ヨハネ」の誕生は大天使ガブリエルによって告げられたことからもわかるように、「聖ヨハネ」は聖霊により生まれ、原罪から自由であった。「聖ヨハネ祭」の起源は古く,「太陽神の冬至祭」だった12/25がクリスマスに定められると,自ずと「夏至」の祝祭が執り行われていた「 Midsummer Day 」即ち6/24に「バプテスマのヨハネの誕生日」が祝われることとなり、「聖ヨハネ祭」は夏のクリスマスとも呼ばれてきた。ヨーロッパがキリスト教以前の「太陽神」の時代だった頃、人々は日増しに高くなる太陽が「頂点」に達すると,そこで耕地に恵みを与え「引き返す」と信じていたが,「聖ヨハネ祭」は、この古い祀りを色濃く伝える。「夏至祭」の日、人々は盛大な夏至の祝火を焚いて太陽に力を与え、悪霊を祓って耕地の繁栄を祈った。「聖ヨハネ祭」の前夜(Midsummer's Eve)、山野、時には街の広場などで祝火が焚かれ、立ち上る煙で収穫を占ったり、火の周りを踊って健康を祈り、恋を占い、残り火を家に持ち帰ってかまどの火を新しくし、家の中へ幸運を呼び込んだ。この「聖ヨハネ祭の前夜」には妖精や魔女、死霊や生霊などが現れ乱舞すると信じられていたが,シェークスピアの『真夏の夜の夢』もこのような伝説を背景としている。

《参考》毎年11/11は冬の始まりを告げる「聖マルティン祭」。子どもたちが色とりどりのランタンを片手に、「♪Sankt Martin, Sankt Martin……」と歌いながら行進する。このお祭りは、「ローマ時代にローマ軍の兵士であった聖マルティンが、遠征中に寒さで凍える貧しい人に、自分の赤いマントを剣で切り裂いて与えた」という伝説が元になっている。その後、司教となったマルティンは人々から慕われ、ついには聖人になった。聖マルティン祭は、彼を祝う。ドイツのデュッセルドルフでは、その日の日暮れ、子どもたちが近所の幼稚園や教会に集合。馬に乗った赤いマント姿のマルティンの後ろに列を作り、手作りのランタン片手に、ブラスバンドの演奏に合わせて歌いながら街を練り歩く。広場に到着したら、「聖マルティンが自分の赤いマントを剣で切って貧しい人に渡す」という寸劇を観て、皆で歌う。その後は近所を回り、子どもたちは歌を披露し、上手に歌えるとお菓子がもらえる。「マルティン祭」が終わると、いよいよ「クリスマス」。ドイツが1年で最も盛り上がる季節だ。(参照:石井めぐみ)

★「啓蒙」は「民間信仰」とも衝突するが、この戦いは、ヘーゲルに言わせると、この「信仰」を打破することでなく、「純粋透見」が「信仰」から「内容」を得、「具体性」を獲得することだ。(285頁)

★もっとも「信仰」との戦いにおいて、勝利が「啓蒙」の側にあることはもちろんだ。けだし「啓蒙」は「純粋透見」の立場をとるが、「純粋透見」は「自己意識の権利を負うて立つ」からだ。(285-286頁)

《参考》(ア)「純粋透見」はただの「働き」(「ただ見透す働き」)だから、「信仰」のように「内容」をもつものでなく、「形式的」なものにすぎない。また(イ)「働き」、ことに「否定の働き」は、ヘーゲルではいつも、「自由」をもって特徴とする「主体」のもの、すなわち「自我」のものだ。その点からすると、「純粋透見」の特徴は「自我性」だ。(283頁)

★そうかといって「啓蒙」の言い分が全く正しいとはかぎらない。なぜなら「純粋透見」は、「純粋」なものとして、最初は「個人的」・「主観的」・「形式的」たることをまぬがれえないからだ。そこからすると、むしろ「信仰」(※「公共的」・「客観的」・「内容的」)の言い分の方が正しく、「純粋透見」の方が間違っている。(286頁)

(69)-3 「啓蒙」の「宗教」批判は当たっていない!「信者」たちが本当にあがめて信じているものは実は「絶対精神」・「絶対実在」だ!「信仰」は、「外在的なもの」でなく、「内的なもの」を信じている!
★「啓蒙」と「信仰」の戦いについて、具体的にヘーゲルは次のように述べる。(286頁)
☆さて「啓蒙」の「宗教」批判は例えば、①「聖餐式にさいして、わかちあたえられたパンと葡萄酒とがそれぞれクリストの肉と血であると信じられている」ことや、②「木や石に刻まれた像が、そのままクリストの御姿であると信ぜられ、あがめられる」ことなどに向かう。(286頁)

★だがヘーゲルに言わせると、「信仰」だって実はそんな馬鹿げたことを信じていない。「葡萄酒は葡萄の実をしぼって作ったもの」、「パンは小麦から作ったもの」であること、「聖像が木石にすぎぬ」ことは、確かに「啓蒙」の主張する通りだ。(286頁)
☆しかし「信者」だって、それくらいのことは、百も承知で、「信者」たちが本当にあがめて信じているものは実は「絶対精神」よりほかのものではない。(286頁)
☆ただ「信仰」が「表象性」をまぬがれえないために、「絶対精神」を「聖像」によって「象徴」したり、また「絶対精神」が「自己」であり、「自己の『血肉』」であることを、「パン」と「葡萄酒」によって「象徴」しているにすぎない。(286頁)
☆「信仰」は、「外在的なもの」でなく、「内的なもの」を信じている。(286頁)
(69)-3-2  そもそも「信仰」とは「信頼」である!「信仰」において「信じられている」のは、「絶対実在」であり、「絶対精神」だ!
★そもそも「信仰」とは「信頼」である。(286頁)
★「人間関係」においても、「相手を『信頼』する」とは、「相手のうちに『自己自身』をみる」ことだ。だから「信頼」は、「他者」にでなく「自己」に向かっている。(287頁)
《感想》つまり「他者」のうちに「自己」を見いだすことが、「他者」を「信頼」することだ。何という「自己」中心性!

★しかも「信頼」は「自分の『我欲』を抑制する」ときにのみ可能なのだから、「相手」のうちに見られる「自己」とは「『我欲』を抑えるところに成りたつ『本来的自己』」だ。(287頁)

★だから「信仰」において「信じられている」のは、「『パン』が『クリストの肉』である」とか、「『葡萄酒』が『クリストの血』である」とか、「『聖画』に描かれ『聖像』に刻まれているのが『クリストの御姿』である」とかいうような「外的なこと」ではなく、「絶対実在」であり、「絶対精神」なのだから、「啓蒙」の、「宗教」・「信仰」に対する批判はまちがっている。(287頁)

(69)-4 「個人」が「絶対的実在」と結びつくには、「直接的な『我執』を否定する」のが当然だ!「苦行」・「断食」・「喜捨」などにも意味はある!「むきだしの直接的な『我欲』」をもって「絶対的」とする「啓蒙」こそがまちがっている!
★また「啓蒙」は、「信者」が「苦行」・「断食」・「喜捨」したりすることを、「馬鹿げたこと」と批評し非難するが、ヘーゲルに言わせると、「個人」が「絶対的実在」と結びつくには、「直接的な『我執』を否定する」のが当然だから、かかる行為(「苦行」・「断食」・「喜捨」など)にも意味はあるのである。だからヘーゲルはそうした行為を認めず、したがって「むきだしの直接的な『我欲』(『我執』)」をもって「絶対的」とする「啓蒙」こそがまちがっているとする。(287頁)

(69)-5 ヘーゲルは、内実の上ではむしろ「信仰」の方が、「啓蒙」より正しいとする!
★以上のようなわけで、ヘーゲルは、「信仰」ばかりが悪いのではなく、「啓蒙」の方にも悪いところがあるのであり、内実の上ではむしろ「信仰」の方が正しく、「信仰」の間違いは、「表象性」・「対象性」にとらわれて、「『自己意識』の権利」を十分に認めないところにあるにすぎぬとする。(287頁)
★それで「『啓蒙』もまちがっている」のだが、「『信仰』との戦い」とはまさにこの「まちがい」を「啓蒙」or「純粋透見」に思い知らせるものであり、これによって「純粋透見」(「啓蒙」)の方も自分自身を「具体化」していくことができるというように、ヘーゲルは考えている。(287頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
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ミュージカル『モダン・ミリー』昭和女子大学人見記念講堂(2024/08/25):ミリーは「自立」(有能なタイピスト)、「玉の輿」、「愛」のすべてを手に入れた!

2024-08-26 06:32:29 | 日記
★2020年4月に上演予定だったミュージカル『モダン・ミリー』。コロナ禍の影響を受け開幕直前に公演中止となったが、2022年9月、東京・日比谷シアタークリエにて初上演。2024/08/25は最終公演!
★原作は1967年公開のミュージカル映画『モダン・ミリー』(ジュリー・アンドリュース主演)。2002年に音楽を一新して作られたブロードウェイ・ミュージカル『モダン・ミリー』は、トニー賞作品賞、他5部門を受賞した大ヒット作。
★1920年代のアメリカを舞台に、カンザスから大都会ニューヨークへ飛び出した主人公ミリーが仕事や恋に奮闘する姿を、明るい音楽と共に描く。1922年のお話なのでほぼ100年前になる。当時、とても新しい考えを持った女の子が、ニューヨークにやってきていろんな人と巡り合い成長していく。
★キャスト:朝夏まなと(ミリー・ディルモント)、中河内雅貴(ジミー・スミス)、実咲凜音(ミス・ドロシー・ブラウン)、廣瀬友祐(トレヴァー・グレイドン)、保坂知寿(マジー・ヴァン・ホスミア)、一路真輝(ミセス・ミアーズ)。演出・翻訳:小林香。

《感想1 》ミリーは都会に出てきて、トランクも財布も、靴も盗まれてしまう。「都会は怖い」というイメージ!ミリーは「新しい女」であり、「自立」と「成功」をめざす。
《感想2 》小さなホテルで出会ったミス・ドロシーが、ミリーとの相部屋を承諾し、服や靴を買うお金を立て替えてくれるなど、ミリーを助けてくれる。ミス・ドロシーは大金を使える「信用証書」をもっているが、世間を知らない。「渡る世間に鬼はない」という諺の通りミリーは助けられる。(このストーリーは「お伽噺」!)
《感想3》ミリーの目指す「成功」とは「大金持ちと結婚すること」。100年前も、今も、似たようなものだ。江戸時代から「玉の輿」と言う言葉があった。
《感想4》ミリーは「有能」だ。速記のタイプが得意だ。ミリーは速記者として就職する。諺に「芸は身を助ける」とある。ミリーは初め、この会社の社長トレヴァー・グレイドンと結婚することをめざした。
《感想5》だがミリーは貧しい青年ジミーとの「愛」に生きることを、選択する。
《感想5-2》「愛」を「金(カネ)」(「財」)に優先させるのは現実では、失敗が多い。ミリーの目指す「成功」とはもともとは「大金持ちと結婚すること」だったのに、ミリーは方針を変えた。「愛は盲目」だ。ただし「財」がある程度あることを前提すれば、「愛」は人生を豊かにする。
《感想6》小さなホテルの女主人ミセス・ミアーズは「金(カネ)の亡者」だ。確かに「地獄の沙汰も金次第」であり、「金(カネ)」がこの世の生活の基礎だ。だが「強欲」は昔から悪徳だ。(Cf. カトリックの「七つの大罪」:「傲慢」・「強欲」・「嫉妬」・「憤怒」・「色欲」・「暴食」・「怠惰」!)
《感想7》だが最後に明らかになる。じつは貧しいはずの青年ジミーは「大富豪の御曹司」だった!ミリーはすべてを手に入れた:「自立」(有能なタイピスト)、「玉の輿」、「愛」!ハッピーエンドだ。そして全編、「お伽噺」だ!

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